遠野には”わらべ歌”があり、中世当時の遠野を統治した阿曽沼氏の信仰が
伝え、歌われている。
えっけぇどの にけぇど
さんぐらこの しけぇど
はせのかんのん とがくしみょうじん
くまのべっとうさま なぁんじょ
この”なんじょ”とは「なぁに?」であり謎掛歌。熊野詣での道順が隠されている。
この”なんじょ”の中に登場する”はせのかんのん”は有名な「鎌倉」の歌にも出
てくる長谷寺の観音であり、”とがくしみょうじん”は信濃の戸隠神社。そして”くま
のべっとうさま”は、熊野三山を支配している別当様なのである。かの遠野の殿様
であった阿曽沼氏も、過去に於いて長谷寺→戸隠神社→熊野というルートで旅を
したとも伝えられているんよ。
阿曽沼時代だから、当然鎌倉幕府時代。しかし表立った八幡信仰よりも、熊野神社
参拝に重きを置いているように感じる。
戦争の時の遠野の人々は、八幡神社に祈願にいったという。この石碑は日露決戦
の病死者と刻まれているが、要は戦争で死んでいった者の供養塔なのだから、
八幡神社と熊野神社は同等のものだったのだろう。
平安末期、八幡神は浄土信仰との融合により、本地を弥陀としていた。一方、人々
が死後の極楽往来を求めて、西方浄土にひたりきろうと「熊野詣」が盛んになって
いったようだ…。
当時、人々の間では、双方を同一視して信仰する風潮があっようで、白河法皇は
「熊野詣」と共に「八幡宮行幸」を熱心に行っており、貴族も同様、熊野へは石清水
を経由して参詣していたようだ。そういう背景から、八幡神ゆかりの地を新熊野社
へ寄進したり、社領を八幡宮寺領に隣接するようになったみたいだ。
それから、氏神を八幡神とした源氏については、熊野別当家と婚姻を結んだようで
ある。源氏は、坂東の在地領主の開発所領を熊野三山へ寄進する媒介となり、坂東
武士との関係を深めながら、勢力を伸ばしていき、そういう背景から、次第に坂東武士
にも八幡信仰が浸透していったのだろう。