山には様々の鳥住めど、最も寂しき声の鳥はオット鳥なり。夏の夜中に啼く。浜の大槌より駄賃附の者など峠を越え来れば、遥に谷底にて其声を聞くと云へり。昔ある長者の娘あり。又ある長者の男の子と親しみ、山に行きて遊びしに、男見えずなりたり。夕暮になり夜になるまで探しあるきしが、之を見つくることを得ずして、終に此鳥になりたりと云ふ。オットーン、オットーンと云ふは夫のことなり。末の方かすれてあはれなる鳴声なり。
「遠野物語51」
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正直「遠野物語51」は、コノハズクの写真を撮影してからアップしようと思っていたが、何年かかっても撮影できずにいた。最近、もしかして生きているうちに撮影できないのでは?と思うようになり、今回ウィキペディアの画像を拝借して記事を書く事にする。
今の時代は便利なもので、こうしてYouTubeでアップされているコノハズクの鳴き声の動画を紹介する事が出来る。聞けばわかるように、これは「遠野物語拾遺118」と同じく、擬音や鳴き声をどう文章化するかの話になる。高橋喜平「遠野物語考(オット鳥考)」では恩徳の三浦氏にコノハズクの鳴声を確認するが、恩徳の三浦氏はコノハズクを飼っていた事があり、オット鳥の鳴き声に似ているとの証言を得ている。ただし明確に「オットー」と鳴いているというわけでないのは、動画からよく理解できる筈。あくまで「オットー」と鳴いている様に聞こえるか?と問われて、似ていると感じる人がいるというだけである。鳴き声は、聞く人によってそれを表音化、もしくは文字化した時に、各々の違いが出て来るもの。
ところで「注釈遠野物語」を読むと、やはりコノハズクの解説となっており、本編に対する解説が成されていない。長者の娘が、別の長者の息子に連れられて山に入って遊んだという内容だが、簡単に帰れないところをみると、奥山まで行ったのであろうか。その後に悲しさからか、オット鳥になってしまった話になっているが、ある意味"かどわかし"の話にも思える。かどわかしは誘拐であるのだが、昔話では何も誘拐するのは人間だけでは無かった。例えば、鷲や鷹に、赤ん坊がさらわれた話は広く伝わる。例えば「遠野物語拾遺138」も、鷲にさらわれた話である。また天狗が人を誘拐する話があるが、その天狗の正体は鳶であった。「今昔物語」にも空を飛ぶ天狗の正体は鳶であるとの話もある。鳥もまた、しばしばその姿のままだけでなく、人の姿に化けて悪さをする場合があるようだ。またこれは小説だが泉鏡花「高野聖」では、山に住む女を慕った男達が、全て動物に変ってしまった物語でもあった。それは女が山の魔性の者であったからなのだが、ここで気になるのは、長者の娘を山奥に連れて行った長者の男の子が果たして人間であったのか?という事。"男の子"と記してある事から、取り敢えず長者の息子であるのだろう。昔は女人禁制の山も多く、また山とは何が棲んでいるかわからぬ恐怖があった。それでも山奥に行くものは、行者かマタギや杣人か、はたまた山菜・キノコを求める者達くらいであったろう。長者の子供が、そういう危険を冒してまで山奥に行くとは考え辛い。これは長者の男の子の正体が、人間では無かったのではないかとも思える話である。
「今昔物語」で、厠に入った女性が化物になって出てきた話がある。また別に、金剛山で修行を積んでいた聖者が、ふとした縁で、ある夫人を自分のモノにしたいと思い、山で命を絶ち鬼となって再び夫人の前に現れる話がある。ここで共通するのは、厠も山も異界の入り口であるという事。厠が今では化粧室ともされるのは、この「今昔物語」の話が大きい。化けるという事は、異界の力を借りると云う事。人に化けている妖魔の正体を見破る方法に「狐の窓」というものがあるが、その呪文に「けしやうのものか、ましやうのものか正体をあらわせ」というものがあるが、「けしやうのもの」とは「化粧をしている者」の事で、正体を隠している者を意味している。
悲しみに暮れ、泣き疲れ果ててオット鳥になった娘であったが、オット鳥になった要因は、山の気を浴びたという事もあったのかと思える。そしてこの話は、先に紹介した泉鏡花「高野聖」での、人間の思いが様々な獣に変化させたものに近いと思われる。「高野聖」で女にやましい考えを持った男は、畜生に変わり果てた。悲しみに全てを包まれた娘は、オット鳥に変った。全ては、山での出来事である。