応永十八年、遠野南部氏の祖光経、宗家の為秋田出陣の際、宗家守行之を労とし、嘗て守行の父政行が足利氏より授けられし伝蔵の薙刀一振を与へらる。光経乃ち提げて役に赴き、軍中に在りて斎戒の清室を構え、勝を月山に祈願しゝ時には此の薙刀を清室に安置しける。既にして戦勝ちて凱旋し、其の子長安の代永享八年、報賽の為八戸の下城村に月山を勧請するや、其の例祭(六月十五日)の代参には前例に倣ひ、之を携帯するを常とし、寛永年代遠野へ転領せる以後は、早池峯新山の祭礼(六月十八日)に代参の士之を携ふることゝなりしとぞ。薙刀は今尚ほ南部男爵の重什たり。
伊能嘉矩「遠野南部家重什の薙刀」
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南部氏は、秋田での戦の勝利を月山に祈願したとあるが、これが南部氏の家紋の由来譚の一つとなっている。ところで何故に月山へと祈願したのか、その理由は記されていない。家紋の由緒譚によれば、神に祈ると月山から双鶴が舞い降りれば戦に勝利するという夢が正夢となったのだが、その神とは月山の神であったのか。その後南部氏は八戸に月山の神を勧請したという事になっている事からも、月山の神を崇めたのだろう。
「ツイている」というのは「付いている」と記すのだが、つまりその当人に、何かが憑いた事を意味する。それが勝利の女神である場合も含め、通常の力以上を発揮した場合に「ツイている。」を使用する事が多い。「ツク」は「突く」「付く」「憑く」「就く」「着く」などがあるが、月もまた月読尊(つくよみのみこと)という神名がある事から「つく(月)」とも読む。この月の語源も様々あり、太陽に次いでの輝きである事から「次」の義。新月などは、月の輝きが消える事から、輝きが尽きるから「尽き」という意もあるようだ。ただ「ツ」には丸い意が含まれ「キ」には、清らかな意がある事から、優しい光を放つ月は、確かに丸い清らかな光りを放つ存在であると、誰もが認識するのではなかろうか。しかし、月は丸いばかりではなく、満ち欠けがあっての月であるから、「ツ」が「丸い意」というのは、そのまま受け入れる事も出来ない。ただ古来から「ツツ(筒)」は星の意ともされ、星を絵で表す場合は、小さな丸で表す事からも、確かに「ツ」には丸い意が含まれているのだろう。この星の「ツツ(筒)」だが、四角い"紙を丸めて"上から見れば、丸い穴が空いているように見える。これ等などから古代人は夜空の星を、紙に穴が空いている様に感じたようだ。
槻折山 品太の天皇、此の山にも狩したまひ、槻弓を以ちて、走る猪を射たまふに、即ち、其の弓折れき。故、槻折山といふ。「播磨国風土記」 槻(ツキ)は、ケヤキの古名で、弾力性がある事から昔は、このケヤキの木から弓を作ったようだ。「万葉集」には、いくつか槻と月を重ねて詠んでいる歌がある事から、槻は月の依代の樹木であったようだ。
津軽の蝦夷に諜げて、許多く猪鹿弓・猪鹿矢を石城に連ね張りて、官兵と射ければ、日本武尊、槻弓・槻矢を執り執らして、七発発ち、八発発ちたまへば、即ち、七発の矢は雷如す鳴り響みて、蝦夷の徒を追ひ退け、八発の矢は八たりの土知朱を射貫きて、立にころしき。其の土知朱を射ける征箭は、悉に芽生ひて槻の木と成りき。其の地を八槻の郷と云ふ。「陸奥国風土記」
月は、満ち欠けによって、その姿が変化する。満ちた満月は、妊娠をイメージさせ兎とも繋がる。しかし、三日月などの細い月は、弓をイメージさせる。今ではグラスファイバー製の弓が増えたが、古くは竹製の弓が一般的だった。しかし、日本武尊の使用した弓と矢は、槻製であったよう。いしつか軽くて扱いやすいからと、竹製の弓に移行したと思うのだが、槻も竹も、どちらも月に縁がある。その月は、武力の象徴にもなる。奇しくもギリシア神話に登場する、月の女神アルテミスもまた、弓と矢を携える武神としても有名である。
「古事記」の序文に文字遣いに関する一文がある。「姓に於きて日下(にちげ)を玖沙訶(くさか)と謂ひ、名に於きて帯の字を多羅斯と謂ふ。」これはどちらも月に関するものである。日下(クサカ)は月坂の意で、月を意味するが、帯(タラシ)は満ち足りた月を意味する。タラシが付く名で有名な人物は、息長帯比売命である神功皇后だろう。そして、その息子である応神天皇は、名前を誉田別と書くのだが「日本書紀(仲哀記)」では、大鞆和気命、又の名を品陀和気命としている。応神天皇は、生れた時から腕にししむらがあり、形は鞆(ホムタ)のようであったとされる。それが名前に反映するのだが、その鞆とは弓を射る時に左手に付けるもので、毬状の形をしている。ホムとは膨らんだ状態を意味し、タは、タリのタ。つまり、月を意味する事から、神功皇后の息子である応神天皇は満月の意でもある。三韓征伐を為した神功皇后は、女帝でありながら武に対する意識が強かった。恐らくこれは、武神を崇めていたものと思える。神功皇后が、仲哀天皇を祟っている神名を呼んだ時に、真っ先に登場した神が"撞賢木厳之御魂天疎向津媛命"であった。「天疎向(あまさかるむかう)」とは、月が天空を西に去って行く様を表す事からも、撞賢木厳之御魂天疎向津媛命は、月神でもある。その撞賢木厳之御魂天疎向津媛命は、軍船の舳先に立ち三韓征伐に向っている事から、月神であり軍神でもある。そしてその神が"憑いた"神功皇后もまた、巫女でありながら戦に勝利した。穏やかな月は、時として荒々しい軍神に変るのは、満ち欠けにより形が変わる月の多面性によるものだろう。ともかく神功皇后は、月神である武神が憑いた為に、戦に勝利した。「ツク」とは勝利の女神であり、その原型は月の女神であるのだろう。それ故、それを知っていたからこそ南部氏は、その"ツキ"を信じて、月山の神に戦の勝利を祈願したのだろう。