由緒不明。ただ附馬牛には5つの熊野神社があり、遠野市全体でもかなりの数にのぼる。ただ小友町や綾織町には熊野社が少なく、附馬牛や土渕町、上郷町に多いというのは、その時代の流れもあったのかもしれない。歴史的にも新しく、17世紀後半に出来た現在の遠野の街に熊野神社が殆ど無い事から、一時代を過ぎてから熊野神社の勧請が止まったとも考えられる。江戸時代に一番流行ったのは、稲荷社だ。遠野の街を歩いていても気付かないだろうが、氏神として裏庭に稲荷社を祀っている家が多い。つまり熊野神社は、稲荷社以前に流行ったものであったろう。
熊野三社大権現と記されている棟札があった。熊野三社とは、熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社の三社であり、それらをまとめて熊野大権現、もしくは熊野大神とも云う。
観音像の手前に、狐像が倒れていたが、この社の手前に内部がカラッポの小さな社がある事から、もしかして手前の社に祀られていた狐像だろうか。となれば手前の社は、稲荷社であろう。