遠野で水天宮を祀る場所は、殆ど見かけない。もしかして、この小烏瀬川の滝だけに祀られているのかもしれない。この水天宮の総本社は、福岡県久留米市の水天宮となるが、そこに河童伝承が伝わる。
石田純一郎「河童の世界」では簡単に、この水天宮の河童伝承を紹介しているが、それを更に略して紹介する事にしよう。
昔、河童は唐天竺の黄河の上流に大族をなしていたが、その中の一族が郎党を引き連れて黄河を下り、海を渡って九州一の大河である球磨川に棲み付いたと云う。九千坊という河童の族長は乱暴者で、田畑を荒らし、女子供をかどわかしたりするので、加藤清正が怒って、九州の猿を集めて河童を攻め立てた。河童にとっての猿とは、大変仲が悪く、手強い敵であった為、降参して肥後を立ち去る約束をして詫びを入れ、土地の者には害をしないと誓約したそうな。その後、筑後は久留米の有馬公の許しを得て、河童達は筑後川に棲み付く様になり、水天宮の使いになったそうな。河童は、お宮の堀にも住んでいて、神主が手を叩くと水底から浮き上がって来るのだと伝わる。どうやら九州の河童は、中国の黄河から来たようだ。しかし日本の秩序を乱すので懲らしめられ、権力者に服従する事になったという事であろうか。その中でも橘氏の流れを汲む、菊池氏と繋がりの深い渋江氏の眷属となっているのは事実というより、信仰の繋がりを感じる。
ところで河童は、よく相撲を取りたがる。河童に相撲で負けた人間は、尻子玉を抜かれたなどと云う話があるが、負ければ諂うのが河童だ。黄河から来たという事で面白いと思ったのは、一般的に知れ渡る中国人との接し方だ。中国人に対して弱気に接すれば、どこまでもつけ上がるが、強気に接すると大人しくなるというもの。まあこれは中国人に限った事では無いだろうが、相手を平伏せる為には、相手の上に立つしかないのだろう。それは相撲で勝つという事もあるだろうが、信仰にのっとれば、同じ水系の神には、頭があがらないものと思える。そういう意味では、渋江氏の下に付いた河童とは、渋江氏の奉斎する神の下に付いたと考えてもおかしくはないだろう。
久留米の水天宮の由来は、壇ノ浦で平家の最後を見届けた後に、筑後川に辿り着いた尼御前と呼ばれる按察使局伊勢から始まる。寿永4年の夏という事である。筑後川の畔に住み付き、小さな祠を祀るようになったが、尼御前の人徳に触れ地域の人々も又、尼御前の祀る祠を拝むようになったという。その祠に祀られていたのは、幼く死んだ安徳天皇と、その母である建礼門院に、祖母の二位の尼の三柱の御霊であったというが、それとは別に天御中主命を祀ったとされる。実際に現在の水天宮の祭神は、この四柱の御霊となっているようだ。しかし
「明治神社誌料(下)」によれば、当初は水天龍王を祀っていたものを、後に天御中主命に改めたようだ。また、この尼御前である按察使局伊勢は、大和國
布留の神社の神官某の女であるとしている。按察使局伊勢は、安徳天皇の内侍でもあるのだが、内侍とは天皇の身辺に奉仕する者であり、ここでは厳島神社の女性神職で、神事のほかに、同神社に参籠する貴人の旅情を慰めるために今様を朗詠したり舞楽などを行った存在でもあるのだろう。同じ福岡県の榊姫神社に祀られる御霊の中に榊内侍と呼ばれた、やはり平家の内侍が祀られている。恐らく按察使局伊勢は、平家の信仰にも詳しいのであると思われる。
壇ノ浦の合戦で最後、水の都に向った安徳天皇だったが、按察使局伊勢はその水の繋がりから、安徳天皇の霊を慰めようとする為の筑後川の畔に祀った祠であったろうか。しかし按察使局伊勢が物部の女であるとわかり頭を過ったのは、死人さえ生き返るほどの呪力を発揮すと云う
「布瑠の言」である。
「ひと ふた み よ いつ む なな や ここの たり、ふるべ ゆらゆらと ふるべ」もしかしてだが、水天宮とは当初、安徳天皇の復活を期してのものではなかったか?何故なら、布留を調べると月神へ辿り着く。月には、不老不死にも繋がる変若水があるからだ。
「佐陀大社縁起」には、こう記されている。
「月神とは大和國に在りては春日大明神と号し、尾張國に在りては熱田大明神と号す。安芸國に在りては厳島大明神と号す。」月神に向かう前に、まず布留の神社について書かねばならない。布留の神社とは、つまり物部氏が奉斎する石上神宮の事。この石神神宮に祀られる神とは、布都御魂大神と布留御魂大神となる。布都御魂は武甕雷男神と共に国譲りの神話に登場する、剣の化身のような武神でもある。それと共に祀られる布留御魂とは、石上神宮の神域を流れる布留川に関係する。
「円空と瀬織津姫(下)」によれば、布留川の源流には布留滝があり、それを「桃尾の滝」または「布留の滝」と呼ばれている。
「布留神宮縁起」によれば、その布留の滝は
「布留御前」として、石上神宮の元社である布留神宮に祀られているのだと。そしてこの布留川の川上は「日の谷」と呼ばれ、
"八岐大蛇伝説の異伝"が伝わっていた。
むかし、出雲国の肥の川に棲んでいた八岐大蛇は一つ身に八つの頭と尾をもっていた。素戔男尊命がこれを八つに切り落とした。大蛇は八つの身に八つの頭がとりつき、八つの小蛇となって天に昇り、水雷神と化した。そして天叢雲剣に従って大和国の布留川の川上にある日の谷に臨幸し、八大竜王となった。今そこを八ツ岩と云う。天武天皇の時、布留に物部邑智という神主があった。ある夜夢を見た。八つの竜が八つの頭を出して、一つの神剣を守って出雲の国から八重雲に乗って光を放ちつつ布留山の奥へ飛んできて山の中に落ちた。邑智は夢に教えられた場所に来ると、一つの岩を中心にして神剣が刺してあり、八つの岩は、はじけていた。物部氏の祀る経津御魂は神剣の神だが、この伝説に登場する神剣は布留御魂の事を意味しているのだと思われる。となれば、物部氏の祀る剣は、二振りという事になるか。三種の神器の一つとなる、天叢雲剣を祀る熱田神宮の別宮である、やはり熱田大神を祀る八剣宮縁起にも、祀る剣は布都であり、布留でもあり石上布留の神社とも祝ひ奉るとされるのは、熱田神宮と布留神宮の剣は同じという事。これらから、久留米の水天宮に尼御前が祀った水天龍王の正体が見えて来た。