鯰が水神の使役・眷属というのはわかったが、関東から東北にかけては鯰の生息は少なかった様だ。江戸の庶民も享保の大地震の時に大量発生した鯰を見て驚いたのは、鯰自体を初めて見たせいでもあった。それが東北になれば、まず鯰を見る事が無い。
「岩手民話伝説辞典」で鯰を調べても、鯰の腹から小判が出て来る話など、江戸の瓦版に書かれた鯰絵の笑い話から作られた様な話が伝わっている程度だ。その代り、鰻の話が多く伝わっている。
遠野で有名なのは、沼の主である鰻を殺した祟りに見舞われ、蛇体となった松川姫の話がある。また、小友町では一般的に知られる、毒を川に流して雑魚を獲ろうとするする若者達をたしなめる坊主に化けたウナギの話が二つほど伝わっている。また別に、沼の主である鰻を退治したら
暴風雨が起きた話。そして、沼の主の鰻が現れる時に、
地震が起きる話が三つほどあった。やはり東北では、鯰の代わりに鰻が、その役割を果たしているようである。また別に、鰻はウンナン様の使いであるから獲れば罰がある話が伝わる。
遠野の一日市にある宇迦神社は、運萬虚空菩薩を祀ると伝えられ、
「遠野町古蹟残映」には、鰻に関する話が紹介されている。
「社前に清泉ありて鰻多く生息す。この鰻は片目にて神の御使と称せられ、捕りて食するときは神罰たちどころに至ると言ひ伝へられる。」
画像を見ると社前に小さな橋がかかっているのは、以前は小川が流れていたのか、はたまた暗渠であったのか?以前に書いた「早瀬川と白幡神社」でわかったのは、川を隔ててこの宇迦神社と白幡神社があったという事。そして昔の川は、現代の遠野と比較すれば想像を絶する程の水量と川幅を誇っていた。それから察すれば、この宇迦神社の境内にに泉があり、小川が流れていたとしても驚く事は無い。逆に言えば、水神に深く関係する社であった事が理解出来る筈。
宇迦御魂命は大抵の場合、稲荷神社に祀られている場合が多い。稲荷と云えば狐のイメージを強く感じるが、宇迦とは、梵語で
"白蛇"を意味する。それは、伏見稲荷の神符を見ても明らかだろう。この遠野の宇迦神社の祭神が虚空蔵菩薩となっているのは、栃木県などに多い、星宮神社=妙見信仰の流れを汲むものではないか。栃木県に多い妙見系神社は茨城県にも影響を及ぼし、その神社に関わる多くの氏子は、鰻を食べる事を忌み嫌っているのは、鰻が妙見神の使いであるからだ。白蛇である宇迦だが、この遠野の宇迦神社は、妙見と龍蛇と鰻の深い関係を表している。
妙見神といえば、星神のイメージがあるが、本来は水神である。妙見神の古くは、熊本県の八代妙見宮であるようだ。そこには大亀に乗って来た女神が、妙見神として祀られている。しかし下記の図を見て欲しい。八代妙見宮の祭に登場する亀蛇と呼ばれる絵である。絵は
「妙見祭民俗調査報告書」より。
大亀に乗った女神である筈が、亀蛇に変っている。古代中国の俗説に、亀には雄がおらず、蛇を雄とするというものがある。実際に、亀の篆書は、亀と蛇の合体文字であるようだ。つまり亀蛇とは、本来の亀である雌の姿となるか?となれば、大亀に乗って来た女神とは、亀蛇が分離した形であろうか?とにかくそれを具体化したのが、八代妙見宮大祭における亀蛇なのだろう。つまり、妙見神の使役は亀でもあり、蛇でもある。
妙見神が後から虚空菩薩と習合し、その使役として鰻が結び付いたのは、地域性の問題でもある。水神の使役が鯰であるのは、西日本に鯰が多く生息するせいでもあった。蛇を頂点としての、
"鱗族"である魚類が、その同族と見做されたのは自然の流れであった。その魚類の中でも、蛇に近い形状でありヌメヌメとした、鯰であり鰻が蛇の代わりになったのは当然の事であろう。鯰であり鰻が水神の眷属となったのは、まず信仰が伝わり、後から地域性が加味されて変化したものであろう。例えば、
千葉徳爾「オオカミはなぜ消えたか」にも、山の神の使役の変化が証明されている。「古事記」と「日本書紀」での伊吹山の神の使役が、白猪や白蛇となっているが、関東から東北にかけての山の神の使役は狼となっているのも、東北には猪よりも狼の分布が多かったせいもあるようだ。大亀に乗った妙見の女神だが、関東から東北にかけては、
「大亀(オオガメ)」という音であるが、東北では
「狼(オオカミ)」が転訛し
「狼(オオガメ)」として認識されている事から、大亀が狼に変換されて伝わったようだ。実際に妙見神として、狼に乗った女神が東北の一部に伝えられている。九州から始まり伝えられる信仰が、東北まで辿り着いた時、どのように変化したかの面白さは、まるで電線ゲームのようでもある。
先に紹介したように、岩手県では鰻が地震を起こし、暴風雨を引き起こす。創建が明らかになっていない遠野の宇迦神社は、まだ現在の遠野町が人が殆ど住んでいなかった水多き時代に鎮座していた可能性から、災害を引き起こす水神を鎮め、町作りの為に創建された可能性があるだろう。現在の遠野の町が、今の様に人が多く住むようになったのは、17世紀後半からであった。そして、遠野の宇迦神社神社が栃木県に多く祀られる星の宮神社の流れを汲むものであるならば、この宇迦神社を創建したのは、やはり栃木県から来て遠野を統治した阿曽沼氏であろう。