オシラサマは決して養蚕の神としても祭られるだけでは無い。眼の神としても女の病を禱る神としても、また子供の神としても信仰せられている。遠野地方では小児が生れると近所のオシラサマの取子にして貰って、その無事成長を念ずる風がある。また女が癪を病む時には、男がこれを持ち込んで平癒を祈ることもある。二戸郡浄法寺村辺では、巫女の神降しの時にもこれを用いるそうだが、同じ風俗はまた東磐井郡でも見られる。
「遠野物語拾遺78」ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
取子は、注釈によれば
「呪術的親子関係ともいうべきもので、生まれた子の無病息災を願って山伏や巫女などの仮親となってもらい、その呪的霊力を得ようとするものである。ここでは、オシラサマが仮親となり、生まれた子はオシラサマの取子となるわけである。」これは昔、民間療法しか無い時代、子供とはすぐに死ぬものだと思われていた。その為に、生まれた我が子を死なせたくない親は、神仏への祈願や、呪術に頼らざる負えなかった。男に女の名前を付けるのも、女の方が強く、生き残る率が高かった事からきている。
「南総里見八犬伝」に登場する犬塚信乃(しの)もまた、女の名を付け生きる事を願った呪術であった。
ところで、養蚕とは女の仕事であった。
「日本書紀(継体天皇元年)」に
「女年に富りて績まざること有るときには、天下其の塞を受くること或り。」とあるが、要は女性が養蚕をしないと天下は凍えてしまうという事。つまり、養蚕という女性の仕事の奨励である。また取子にしてもそうだが、これは母性を訴えてのものだと理解する。烏帽子や丸顔、馬頭など、オシラサマにはいくつかの顔があるが、これらオシラサマの神性は、どう考えても女神である事が前提であるようだ。
金子裕之「日本の信仰遺跡」で、出土する土偶を調べていると形だけでなくキラキラ輝く雲母を意図的に付けてあったり、黒光りするまで磨き込んでいたり、赤彩を施していたりするのは、呪術的意味合いより、オシャレ感覚からだろうと述べている。また、土偶の両耳、両胸、ヘソの部分、そして頭に孔があけられているのは、仮面を含む装飾を施す為のものだろうと。そして金子氏は、この様な土偶を見て連想されるのは、オシラサマであると述べている。
「現代の民俗例であるオシラサマには、仏教など、その後の時代の要素が多数混入している。しかし、それらを取り除き、土偶の出土状況や形態に見られる要素を重ねてみると、縄文時代の土偶の祭が彷彿とあらわれ出るようだ。」縄文時代には、共同体に土偶をめぐる女性中心の祭祀があったという説がある。オシラサマもまた、女性中心の祭祀である事を踏まえれば、確かに縄文の女神である土偶とオシラサマは、どこか重なってしまう。神の神託を受けて来たのが巫女の歴史でもある。古墳時代の埴輪には、巫女像が出土し、神話には巫女の族長が登場し、大化の改新前後から奈良時代にかけて女帝が相次いでいるのは、巫女という女性を中心とした祭祀があった歴史の名残だと思う。その女性を中心とした原始の形態を引き継いだのがオシラサマ信仰であったとしても、何等不思議は無いだろう。俗に、男神は磐座に降臨する。女神は樹木に降臨するとも云われる説がある。完全に同意は出来ないが、確かに樹木に降臨した女神の例はいくつかある。
また伊勢神宮の心御柱の祭祀には禰宜も関与出来ないのだが、それが出来るのは、度会一族から選ばれた大物忌という童女だけであるという。そしてこの祭祀には、度会と多気の両神郡から持って来た榊で宮を飾らなければならないのだと。では、何故大物忌でなければならないのかとされる理由は、その心御柱の神が祟る恐ろしい神であるからだと。大物忌とはあくまで神を世話する存在であるが、その童女の年齢はまだ人間になりきっていない七歳までの神の子である童女であり、神が女神であるからこそ、同性である童女が世話をするのである。恐らく心御柱も、縄文の祭祀を引き継いだものではなかったか。そして、それも含めオシラサマもまた、縄文の女神祭祀を樹木に置き換えて引き継いだものであろうか。