始めて早池峯に山路をつけたるは、附馬牛村の何某と云ふ猟師にて、時は遠野の南部家入部の後のことなり。其頃までは土地の者一人として此山には入りたる者無かりし也。この猟師半分ばかり道を開きて、山の半腹に仮小屋を作りて居りし頃、或日炉の上に餅を並べ焼きながら食ひ居りしに、小屋の外を通る者ありて頬に中を窺ふさまなり。よく見れば大なる坊主也。やがて小屋の中に入り来り、さも珍らしげに餅の焼くるを見てありしが、終いこらへ兼ねて手をさし延べて取りて食ふ。猟師も恐ろしければ自らも亦取りて与へしに、嬉しげになほ食ひたり。餅皆になりたれば帰りぬ。次の日も又来るらんと思ひ、餅によく似たる白き石を二つ三つ、餅にまじへて炉の上に載せ置きしに、焼けて火のやうになれり。案の如くその坊主けふも来て、餅を取りて食ふこと昨日の如し。餅尽きて後其白石をも同じよやうに口に入れたりしが、大に驚きて小屋を飛び出して姿見えずなれり。後に谷底にて此坊主の死してあるを見たりと云へり。
「遠野物語28」ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「奥々風土記」には、下記のように記してある。
「白髭神社、早池峯山の山中河原の坊という處にあり寛治元年(1087年)六月の頃雨降続きて此邊の川々大洪水せり當時髪髭眞白なる翁丸木に打乗て水上より流れ来て云けらく我れは白髭水の翁なりと告給へり故白髭の大明神と美稱て妙泉寺てふ寺の鎮守に崇奉れりとなん。」妙泉寺とあるが、これは遠野妙泉寺ではなく、大迫妙泉寺である。「遠野物語28」では大坊主、大迫の伝説では山姥となっているが、本来は白髭の老翁が普通である。この伝承は、遠野・大迫だけでなく、全国に分散し、その白髭の老翁を祀る白髭神社の総本山は、近江国にある。
白髭神社の祭神である白髭の老翁の正体は、比良明神であるという。その比良明神が登場する古い縁起は、白髭神社ではなく、石山寺の縁起であった。
奈良時代、聖武天皇が推し進める東大寺の大仏の鍍金の為に膨大な量の金が必要であった。その当時、金は輸入に頼っていた為に難儀をしていた。その時、聖武天皇の命を受けた良弁僧正は金峯山に籠り、黄金発見を祈願したところ、蔵王権現が現れ、近江国の瀬田に霊地の山があり、そこで祈願すれば良いと告げられた。良弁は近江国へ赴くと、そこで釣りをしている比良明神に出会った。画像は、その良弁と比良明神の出逢いである。それから比良明神に石山が霊地であると教えられ祈願したところ、陸奥国から黄金の発見され、聖武天皇に献上されたという縁起である。良弁を導いた事から、天孫族を導いた猿田彦と比良明神は習合したようで、現在の白髭神社の祭神の表向きは猿田彦となっている。
また社伝では、垂仁天皇25年に倭姫命によって社殿が建てられたのが当社の創建であるという。また白鳳2年(674年)には、天武天皇の勅旨により「比良明神」の号を賜ったとも伝える。倭姫命の遠征は以前「荒御魂」で書いた様に、武力制圧の旅であった。その時に一緒に回った神とは、天照大神の荒魂である撞賢木厳之御魂天疎向津媛命であり、瀬織津比咩の異称であった。琵琶湖の瀬田の付近には大石と呼ばれる地があるが、元々「お伊勢」が変化して「大石」になったと伝えられる。そしてその大石の傍に土地を所有していたのが、俵藤太の末裔である小山氏であり、遠野を統治した阿曽沼の祖であった。
何故早池峯に白髭明神が祀られているかと考えれば、共通するのがその場所であろう。早池峯には瀬織津比咩が祀られているが、琵琶湖の瀬田とは七瀬の祓い所であり、俵藤太が竜宮へと出向いた場所である。桜谷(佐久奈谷)に祀られる桜明神とは瀬織津比咩の事であり、そのたぎつ落ちる水の場所が瀬田の竜宮の入口であった。その瀬田で良弁が出遭った比良明神は、まさに導きの明神であった。どこか塩椎神とかぶるその性質は、猿田彦というより、やはり塩椎神の変化と考えた方が良いかもしれない。その塩椎神が祀られる、陸奥国一宮の塩竈神社があるが、本来祀られていたのはどうやら水神であったらしい。その水神の元へと導いた塩椎神と、白髭老翁=比良明神とは本来、同じではなかろうか。そして、この白髭明神を早池峯の麓にもってきた者とは、俵藤太と瀬田との繋がりから恐らく、阿曽沼氏関係の人物であろうと思えるのだ。