また土淵村大字飯豊の今淵小三郎氏の話にも、オシラ様を鉤仏ということがあるという。正月十六日のオシラ遊びの日、年中の吉凶善悪を知る為に、ちょうど子供等がベロベロの鉤をまわす様にして、神意を問うものだそうである。昔は大人も皆この占いをしたが、今では主として子供がやるだけで、この家ではついその正月にも炬燵の上で、盛んにやっていたということである。
「遠野物語拾遺85」
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オシラサマを回して占う方法は
「遠野物語拾遺84」で紹介されている様に、狩に行く方角を占う為に使用されていた。これは辻などに出くわしどちらに行くか迷った場合、一本の木を立てて倒れた方向の道へ進む遊び感覚の占いと同じ様なもの。樹木には神が憑くと云われるが、俗説では石に影向するのは男神で、樹木に影向するのは女神だとも云う。それをオシラサマに対応させれば、山の神は大抵の場合女神である事から、オシラサマで狩りの方角を占うのは、山の女神の影向した樹木に聞くという事になる。そのオシラサマと、自在鉤が同一と考えられていた。その自在鉤にも方向性、方角性が重視されており、例えば自在鉤に鉄瓶をかけて温めるのだが、その鉄瓶の蒸気の吹き出す口を北に向けてはならないという禁忌がある。それはつまり、北を重視した信仰と結び付いたのが、自在鉤でもある。
囲炉裏の横座で放屁すると、竈まで聞こえる話は
「遠野物語拾遺86」で書いたが、囲炉裏と竃の空間は繋がっている意味になる。その竈のある空間は、食べ物を調理する台所でもある。その台所で正月七日に、春の七草を叩く事が行われる。七草を叩くのに、七回づつ七度、四十九叩くのだと。これは、七つ叩くのは北斗七星の七曜と結び付いているという。全部で四十九になるのは、その七曜と九曜、二十八宿と五星を全て足して四十九の星にする為だと云う。
五星とは、火・水・木・金・土の五行の事である。この五行が生きていて囲炉裏と似た様なものに、茶室がある。囲炉裏の主人が座る横座は西に位置し、茶室でも主人が西側に座って客と対座する。ただし、囲炉裏では客が座るのは南側であるが、茶室ではそのまま東の違いがある。ただ結局、本当の主役は北側であり、茶室では掛軸などの飾り物が掛けられる。そして、その茶室でも占が行われるようだ。棗と茶杓を拝見に出す置き方が「卜」の字になるように置き、それが素晴らしい道具かどうか手に取って占うのが本来の意味らしい。
囲炉裏も茶室も、全て炉を中心とし、北側を尊重した世界観で流れている。ところで、飲む前に茶碗を回す作法は、相手への気遣いの表れだとされている。茶室の主人は茶碗の一番美しい絵柄部分を客に向けて出すが、そこに口を付けるのは失礼にあたる。だから、客は茶碗を回して飲む位置をずらすのだそうだが、東に座った客の位置から茶碗の絵柄は最終的に北を向く様に決まっているようだ。それはつまり、囲炉裏も茶室にも北辰や陰陽五行の思想が入っているという事は、北に鎮座する神に対して敬意を表する作法となっているのではなかろうか。オシラサマを回す、自在鉤を回す、そして、茶碗を回し、棗と茶杓を「卜」の形として占うのも、全て神が憑いたという流れによるものであろう。その神も、炉という火の神を中心とした空間から、北に鎮座する水の神との交流を意味するのであろうのは、それが陰陽の和合となるからだろう。