上郷村字佐比内の笹久保という処には、昔一人の女長者が住んでいたと伝えられている。その笹久保の前の稲荷淵のほとりに、かると石という大石が今でもあるが、これはその女長者の家の唐臼の上につけた重し石であったという。
「遠野物語拾遺132」ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
文中にある「かると石」を、もっと細かに説明すると、唐臼の杵の端につけて労力を節減する為の重し石であり、「唐臼」は、臼を地に埋め、横木にのせた杵の一端を踏み、放すと他の端が落ちて臼の中の穀類などを搗く踏み臼。
唐臼は画像の様な人力と、水車を利用する水力があるのだが、解せないのは長者でありながら、水車を利用せず、人力の唐臼を利用している事である。遠野は水源を有する山々に囲まれた盆地であり、水が豊富であった事から、遠野各地に水車があった。このかると石があったであろう場所の傍には猫川が流れ、水車があってもおかくしはなかっただろう。長者の財力があれば、水車小屋などすぐに建てられたと思うのだが・・・。
ところで、この女長者の財は、どうやって成したのか?立地的には、佐比内鉱山寄りの地であり、水は冷たく田畑には不適である地である。可能性が高いのは、やはり鉱山経営であったろうか。山口部落の山口孫左衛門もまた鉱山経営をしていたが、座敷ワラシが出て行った為に没落している。この女長者の没落の原因は、何であったのか。
文政年間に、釜石とを結ぶ小川新道が開通しているが、この小川新道は仙人峠の甲子村による通行料が高い(馬一疋三百七文、人足壱人百五十壱文)為に、釜石の佐野氏が私財を投じて開通させたものだったが野田文書によれば
「文政七年(1824年)大風雨洪水ニヨリ小川新道デ遠野馬死」という記録から、どうも土砂崩れがあって、せっかく開通した新道が崩落したようだ。
そして
「遠野馬死」でわかるように、誰かが馬を利用して荷を運んでいたのだろう。馬に荷を積んで運び利益を得ていた者は、大抵は長者と呼ばれる者達であったろう。仙人峠と小川新道の利用数では、断然仙人峠を通って釜石と遠野を行き来していた人達が多い。小川新道を利用する者は、その立地条件から考えても、笹久保の女長者であった可能性があるだろう。遠野だけでは無いが、馬を全て失って没落した長者の話があるが、この女長者が没落したのは、大風、大雨の日でありながら無理に小川新道を通った為、土砂崩れに遭い、大事な馬も荷も、そして信用も全て失って没落したのかもしれない。