黄昏に女や子供の家の外に出て居る者はよく神隠しにあふことは他の国々と同じ。松崎村の寒戸と云ふ所の民家にて、若き娘梨の樹の下に草履を脱ぎ置きたるまゝ行方を知らずなり、三十年あまり過ぎたりしに、或日親類知音の人々其家に寄り集まりてありし処へ、極めて老いさらぼひて其女帰り来れり。如何にして帰って来たかと問へば人々に逢ひたかりし故帰りしなり。さらば又行かんとて、再び跡を留めず行き失せたり。其日は風の烈しく吹く日なりき。されば遠野郷の人は、今でも風の騒がしい日には、けふはサムトの婆が帰つて来さうな日なりと云ふ。
「遠野物語8」【阿留沢】菊池照雄「山深き遠野の里の物語せよ」によれば、上閉伊郡松崎村の登戸に住む茂助の家の娘で、サダという名前であったという。「遠野物語」では「寒戸」という地名になっているが、これは柳田國男が間違ったか、もしかして意図的に地名を変更したものかとされている。この登戸の西側に阿曽沼氏の館があり、その館に向う登門の場所であったものが、いつしか登戸という地名になったという事である。
その当時、人々は理由のわからない家出を指して"神隠し"と呼んだそうであるが、そのサダは六角牛山の山男に攫われたという事になっているが、そのサダが住んでいたのは六角牛山の阿留沢にある岩窟であったそうだ。それは、山男と生活していたというより、一人で山の生活を送っていたかの様な話である。「遠野物語3」に登場する、鉄砲に撃たれた美しい女もまた、山深い笛吹峠の緒桛の滝周辺に住んでいた女であった。
また別に、山神の怒りに触れて石になったとの伝承があり、六角牛山の中腹にある姥石とは、そのサダが石になったものだろうとされている。つまりそこには、山神や山男の加護は無く、自らの罪で石になってしまったサダであり、サムトの婆の話となっている。
そのサダの罪とは何かと考えれば、六角牛山の女人禁制の境界を越えたものとは別に、里に対して被害をもたらした事もあるのではなかろうか。「遠野物語8」には載ってないが、毎年サダが里に下りて来るたび、暴風雨が吹き荒れ、収穫を前にした作物がダメになってしまうというもの。作物は神にも捧げるものであるから、それを台無しにしてしまうサダの行為は、山神の怒りに触れたのだろうか。村人達は、サダがもう里に下りた来ない様に、山伏に頼んで六角牛山と里の境界に道切りの法をかけてもらい、結界石を置いたと云う。
しかし、毎年山から下りて来るたびに暴風雨が吹き荒れるとは、まさに妖怪化した婆様であろう。土淵の山口部落では、南方にその六角牛山が今にも迫ってきそうに聳えている。そして「いつまでも煩くしているとモンスケ婆が来るぞ!」という子供を脅す言葉が伝わっていたという。そのモンスケ婆とは茂助の家の婆様の事を言い、それは六角牛山に住むサムトの婆の事であった。恐らく、民話などで良く聞く山姥がモンスケ婆と結び付いた為に、恐ろしい存在になったのだろう。今で言う、都市伝説の様な話である。生きている娘が山に棲み付き、恐ろしい形相となり子供を襲いに来るなどと聞いたら、眼前に聳える六角牛山を見て子供達はリアルに、恐ろしい思いを抱いたに違いない。