同村字山口の火石の高室勘之助という老人が中年に、浜歩きを業としていた頃のことである。ある日大槌浜から魚を運んで帰る途中、山落場という沢の上まで来て下を見ると谷間の僅かの平に一面に菰莚を敷き拡げて干してあった。不思議に思って、馬を嶺に立たせて置いて降りて行って見たが、もう何者か取り片づけた後で、一枚も無かったという。この老人は明治の末に八十三で死んだ。これはその孫に当たる者から聴いた話である。
「遠野物語拾遺103」ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
火石という地名には正福院という山伏系の家があった。その奥に、その家で祀っていた「遠野物語拾遺232」にも登場する熊野堂がある。また、宮守に火石沢という地名があり、やはり修験が入った場所と云われ、タタラ場もあったと云われる。火石という名は、まさにそうなのだろう。
「注釈遠野物語拾遺」によれば、高室勘之助は財産家であり、後に遠野の町へと引っ越したという。つまり、大槌の浜から魚を運んで商売をし、財を成したのだろうか。
山落場という沢とは、琴畑の林道を登れば、樺坂峠があり、その西斜面が山落場沢であるという事だ。ここ数年の間に営林署が、細かな沢でも、その名が分かるよう表示をしたので、簡単に確認ができる。
ところで、樺坂峠から白望山の登山道方面へ行くと、金糞平というタタラ場がある事から、山にも人が住んでいたのはわかっている。そういう事から、菰莚は山に住む人が虫干しにしていたものだろうが、何に使用したものかはわからない。これは里の者が
「山には人が住んでいる筈が無い。」という前提での話である。