綾織村から宮守村に越える路に小峠と言う処がある。その傍の笠の通と言う山に、キャシャというものがいて、死人を掘起してはどこかへ運んで行って喰うと伝えている。また、葬式の際に棺を襲うとも言い、その記事が遠野古事記にも出ている。その怪物であろう。笠の通の附近で怪しい女の出て歩くのを見た人が、幾人もある。その女は前帯に赤い巾着を結び下げているということである。宮守村の某と言う老人、若い時にこの女と行逢ったことがある。かねてから聞いていた様に、巾着をつけた女であったから、生捕って手柄にしようと思い、組打ちをして揉合っているうちに手足が痺れ出して動かなくなり、ついに取遁してしまったそうな。
「遠野物語拾遺113」ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
キャシャに関しては、以前にも書いてはいる。ただ解せないのは、この「遠野物語拾遺113」でキャシャという化け猫の妖怪と、この赤い巾着の女が同じである様に書いている事である。江戸時代になると幕府公認の娼婦を「狐」と呼ぶのに対し、町場にうろついているいる娼婦を「猫」と呼んだという。 その中で寺院の境内で商売する娼婦を「山猫」と呼び、京都の東山にいる娼婦もまた「山猫」と呼んでいたようだ。鍋倉山の西側に多賀神社があり、その上辺りに成就院という寺があったようだが、その境内にも娼婦はいたようで、それは山猫であったか狐であったか。ただ、多賀の狐の話がある事から、もしかして南部藩公認の娼婦の
"狐"であっただろうか?
西洋に目を向けても18世紀のヨーロッパでも娼婦を「キャット」と呼び、売春宿は「キャットハウス」と呼ばれていた。これは発情期などの猫が、夜を彷徨い雄猫を呼び込む習性からきているようだ。「泥棒猫」という呼称も、物を盗むというより、男を誘惑し奪うという意味合いからの「泥棒猫」であって、どうも娼婦のイメージが猫から離れない。
現在の小峠トンネルのずっと手前を左に入り、笠通山から流れる小川にお不動様がある。この小川は、長雨が続いても濁る事のない川と云われ、高い石の上から落ちる清い水は、昔からお不動様の御水と名付けていたそうである。街道を行き来する人達は、この御不動様の水に喉を潤して休んでいたそうである。これに目をつけた爺様が、小さな店を建ててワラジだの馬沓だのを売り、腰掛台を並べて、旅人の一休みにあれこれと気遣ったので、喉を潤すお滝様の清水と共に旅人に大変評判が高く、ここにも沢山の人が集まったらしい。また、笠通山の中腹にも阿弥陀堂と呼ばれる御堂があったそうだが、詳細は明らかになっていない。ただ山猫と呼ばれるような娼婦であれば、そういう御堂も商売の場所として使えるもの。
怪しい女の話であれば、笠通山には行灯を灯す女に化けた貉の話があるが、これと似た様な話は遠野で4ヵ所もある。一つは鍋倉山の行燈堀であり、一つは笠通山。一つは、寺沢高原であり、一つは小友町の外山となる。鍋倉の場合は成就院を少し上に行けば行燈堀となるので、成就院の娼婦の関係から作られた話の可能性はあるだろう。また小友町の外山の場合は、その貉が祀られた稲荷がある事から、狐話しの類の変化であろうか。寺沢高原の場合、東禅寺の開祖となった無尽和尚の庵のあったと云われる場所の傍であるから、笠通山の阿弥陀堂の様に、山に住み付く娼婦というより「高野聖」の様な仙女であろうか。傀儡目や白拍子など、神に仕えながらも漂白し、男と契りを交わす女達もいた。その行為を神婚と呼び、普通の娼婦とは違うのだと一線を画していた。神社の巫女達もまた、大祭などの夜には宮司と契りを結び、それを神婚と呼んでいたのを白拍子や傀儡目達も同じであるとしたのだろう。
平成初期に、現在は全く人気の無い東禅寺跡の無尽堂と呼ばれる小さな御堂に、尼僧が修行の為に暫くの間寝泊まりしている事があった。これと同じように、寺沢高原の無尽和尚の庵、笠通山の阿弥陀堂にも似た様な漂泊の宗教女が居付いていた時期があったのかもしれない。それが笠通山の化け猫であるキャシャと結び付けられ、語られた可能性があるのではなかろうか。