江戸の幕臣朽木徳綱の御先手与力矢野市左衛門の祖父は、隠居して三無といい、牛込榎町に住んでいた。その三無のところへ、いつのころからか一匹の野良犬が通ってくるようになり、食事どきにきては、三無の食事の分け前にあずかる日々が続いた。文化十年(1813年)、三無が八十九歳になったある日、病で二。三日伏せったことがあった。それで三無もおもうところがあり、その犬に向って、「お前はいつもやってくるから食事を分け与えてきたが、わしももう年でいつ死ぬかもわからない。そうなれば、食事を分け与える事も出来なくなる。だから、お前もそろそろ別の心ある家をさがし、そこへ通うようにするがいい。」と諭した。すると不思議な事に、その犬は翌日から現れなくなった。
「耳嚢」ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
江戸時代中期から後期にかけて南町奉行の根岸鎮衛が、天明から文化にかけて同僚や古老から聞き取った珍談、奇談などが記録された随筆「耳嚢」の中に、上記の犬の話が収められている。実は、この話に似た様な事を、犬では無く猫として体験している。
上の画像は以前から見かけていた野良猫だが、寒くなった2014年の9月頃から店の前に顔を出すようになった。家の猫共も贅沢になったか、せっかく与えた餌を食べ残す事がよくあったので、その残りの餌を店の前に置いて、与えていた。ただその時
「ここから中には入るなよ。」と云い聞かせたら、それから境界線をずっと守り続けた野良猫だった。
ところが寒くなった12月の初め頃に、私自身が倒れて入院する事になった。私と入れ替えになる様にその日の夕方頃、やはり店の前にその野良猫が来たらしいが、怪我をしたようで足を引きずりながら店の前に来たと言う。家のかみさんが可愛そうだからと、店の中に入れてやったそうだ。
私が退院して戻ると、ある場所にじっとしている野良猫だった。猫は怪我をすると身動きせずに、じっとして治すのがよく知られる。自然治癒力が強いのだろう。店も、食堂はまだ営業しておらず、泊り客も素泊まりが殆どだったので、野良猫一匹がいても大丈夫かと思っていた。
しかし、いつまでも食堂を休業するわけにもいかないので、12月の半ば過ぎには営業を開始しようと思っていた。野良猫も、傷が癒えたようで、どうにか普通に歩けるようになっていた。食堂を営業するにあたって、この野良猫の問題があった。体が臭過ぎたのだ。洗ってあげればいいのだろうが、野良猫を洗うというリスクは、かなりある。ましてや冬の寒い時期でもある為、洗うわけにもいかないだろう。そんなある日、餌を与えた後に野良猫を抱き上げて玄関の外へと置いた。
「もう、ここに置くわけにはいかないから、どこかへ行きなさい。」すると、悲しい表情をしながらも理解したようで、店から去って行った。聞き分けの良い猫というより、人の言葉を理解する、頭の良い猫であった。まるで「耳嚢」の話と同じだなぁと感じたものだった。
数日後、かみさんが蔵の町通りの「タントタント」という店の付近を、この野良猫が歩いているのを見かけたという。あれから1ヶ月は過ぎたが、元気でいるだろうか?