この水路は大鶴堰と呼ばれ、音楽石という橋がかかっていたとされる。
伊能嘉矩「遠野くさぐさ」によれば、天台宗の積善寺が盛んな時、この大鶴堰で祓の行事で、天児を流していたと伝えられている。
天児は上の画像の人形で、お雛様の原型であるとも云われる。人の罪や穢れを代わりに受ける、磔になった人形である。ただ解せないのは、積善寺の建っていた九重沢の前にも川はあるのだが、この祓の行事をわざわざこの大鶴堰でやったのには意味があるのだろう。この大鶴堰は、会下の十王堂の並びにある。積善寺の入り口が、会下の十王堂の辺りであった事から、聖域を積善寺境内であるなら、それからはみ出した大鶴堰が穢れを流すのには丁度良いと考えたのだろう。それはつまり、この大鶴堰が三途の川の役目を果たしていたという事ではなかろうか。あの世とこの世を分け隔てる三途の川。傍には十王堂があり、人の罪を裁く閻魔大王と、三途の川の畔に居座る亡者から穢れた衣服を剥ぎ取る脱衣婆の人形が鎮座している事から、この大鶴堰と十王堂は、地獄への入り口でもあり、極楽浄土へ入り口でもあったか。
以前
「不気味な人形」という記事を書いたが、その時「遠野市史」で調べると大鶴堰は鶯崎を示していた。しかし、不気味な人形に憑いた邪悪なモノは、穢れによって変化した天児人形であったであろうから、「不気味な人形」の舞台は、この大鶴堰なのだろう。今でこそ住宅が密集しているが、以前は家も殆どなかった場所であるから穢祓の行事には、都合が良かったのだろう。何故なら穢れの溜まる場所であり異界の入り口である事から、障りなどの心配が起きてしまうので、人気の無いのは丁度良かったのだろう。