「付け馬」という言葉がある。
小学館「日本語源大辞典」によれば、遊郭や飲み屋などで、客が代金を払えない場合、その客に付き添ってその代金を取り立てに行く事を仕事とした者を云うのだと。また別に
「附く」とは
「空来(うつき)」の略であるという。「空(そら)」とは空っぽの意味であるから、ただ「附く」だけでは空っぽであり、何かに附いてこそ、意味を成すのだと思える。当然、飲み屋のツケも、ツケのままでは空っぽであり、回収出来てこそ身と成り形となるのだろう。つまり、ツケとは後で飲み屋などに支払うものであり、捧げる意にもなる。それでは、牛馬を払う、捧げるとはどういう事になるのだろう。
附馬牛地区には別に、
「大出・小出」という地名がある。これは以前、恐らく
「生出(おいで)」という水の湧き出る地の意味を、大出・小出と二つに分けたのだろうと考えた。大出・小出もまた、どちらも
「おいで」と読めるからである。
「続日本記(791年)」には
「牛を殺して漢神を祭るに用いる事を断つ。」という禁令が発布されている。古来から、雨乞いなどの儀礼に馬や牛を神に捧げていた歴史がある。しかし馬に関しては、いつしか生身の馬から絵馬に代えられたが、牛に関しては恐らくこの「続日本記」から禁止されたのだろう。絵馬の古いもので奈良時代の物がある事から、奈良時代以前には生きている馬を神に捧げる事を止め、絵馬がその代用品となったのだが、牛は8世紀後半になってやっと禁止されたようだ。だからといって、都で発布された禁令が遠野の地までに広がったのはいつの頃であるだろう?8世紀後半はまだ蝦夷征伐の真っただ中であった。恐らく蝦夷国が文化的にも安定したのは、奥州藤原時代の事であったろう。未だに伝えられる雨乞いの儀礼に、滝壺などに牛馬の死体や骨を投げ込んで、水神を怒らせて雨を期待するというものは、牛馬を神に捧げた名残であったろう。
大出・小出、そして牛馬と、水に関する地名が点在しているのが附馬牛という地名である。考えてみれば、早池峯に祀る神とは水神である。その早池峯の麓の附馬牛には、水との関わり合いが深いと云わざる負えない。
京都の貴船神社は、水神を祀る事で有名だ。その水神は罔象女神であり、古代において生きた馬を神に捧げた吉野川上流の丹生川上社からの勧請であった。その貴船神社の貴船とは、「気・生・根(きふね)」からの命名であり、大自然の「気」が生ずる地という意味となる。その貴船神社では当然、雨乞い儀礼が行われたが、それ以外に歴代の天皇は疫病が流行らないよう厄除け祈願をし、徳川家光は疱瘡平癒を祈願している。疫病は水神と関わりが深いと云われる。それは水が腐ると、そこから疫病が発生し流行った為だろうか。確かに、その家の者を憎んだ場合、井戸に毒や呪詛をかけるのは、水が穢れや疫病の始まりとされた為なのかもしれない。だからこそ、水は清くあって欲しい為の疫病除け祈願であったろうか。
実は、遠野の宮守地区の神社を見ていると、疫病神でもある牛頭天王と早池峯大神が並んで祀られているのを目にする。早池峯大神は東禅寺の伝説などから白馬に乗った貴人という表現で語られるが、早池峯神社の大祭を見ていても、早池峯大神を載せた神輿は、境内を出る前に同じ境内の駒形社に寄るというのは、早池峯大神が馬に乗る事を意味しているのだろう。その後に神輿は境内を出て、祓川へと向かう。この疫病神でもある牛頭天王と水神である早池峯大神の組み合わせは、牛と馬との組み合わせにも思える。
「附」とは「空来」の略だと書いたが、空とは天を示す。古代における天とは、高く聳える山でもあった。「附」が「捧げる」意であるならば、「附馬牛」とは、水神である早池峯大神に捧げる意にもなるのではなかろうか。