附馬牛村の竹原という家の老爺、家にオシラ神があったのに、この神は物咎めばかり多くて御利益は少しも無い神だ。やれ鹿を食うなの肉を食うなのと、やかましいことを言う。おのれここへ来て鹿を喰えと悪口して、鹿の肉を煮る鍋の中へ、持って来て投げ込んだ。そうするとオシラサマはたちまち鍋より飛び上がって炉の中へ落ち、家の者は恐れて神体を拾い上げて仏壇に納めた。後にこの家の焼けた時にも、神は自分で飛び出して焼けず、今でも家に在ると、その老人の直話を聴いた者の話である。気仙の上有住村の立花某、家にオシラサマが有って鹿を食えば口が曲がるという戒めがあるにもかかわらず、その肉を食ったところがはたして口が曲った。飛んでも無い事をする神様だと、怒って川に流すと、流れに逆らって上って来た。これを見て詫びごとをして持ち帰って拝んだけれども、ついに曲った口はなおらなかった。
「遠野物語拾遺81」ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
謎の神と云われるオシラサマには、いろいろな顔がある。その中の一つが、この話に出て来るような祟り神であるという事。まあ、元々神とは祟り神から発生して、現世利益とは後から付け足したものである。つまり、オシラサマに限らず、どの神であろうと粗末に扱えば祟りを為すという事だろう。ところで、肉を食べて口が曲ったとの話が紹介されている。上有住の立花某は戒めを破って肉を食べたが、結局治らなかったという事だ。
伊能嘉矩はオシラ神に対して、こう述べている。
「信者たるものは、鳥獣の肉を食ふを禁ぜられる。若も此禁を犯す時は、神を瀆せるものとして、必ず祟りあり。」
「蓋し是れ等は皆な迷信によりて自ら求むる禍にて、神経作用の過ぎざるべきも亦神の勢力の如何に強く信ぜらるゝかを推すに足らん。」伊能嘉矩の言うように確かに迷信であろうが、三峰様講でもわかるように、強い信仰により神威に怯える信者は、神経に及ぼす場合もままあるのかもしれない。
しかし、口が曲るとはどういう事を言うのか。例えば、脳溢血で倒れた者は神経麻痺となり、口が曲ったようになり、言葉も上手く話せなくなってしまう。ただ、上有住の立花某は、その後も歩くのには不自由していないようであるから、顔面だけの麻痺であろう。顔面麻痺を調べると、余りに体や顔を冷やし過ぎた場合と、帯状疱疹による神経の圧迫などから起きるようである。
槇佐知子「病から古代を解く」には
「宇都奈比也美(うつなひやみ)」というものがあり、正確に漢字をあてるなら
「虚萎病(うつなえやみ)」であろうとしている。この虚萎病は、古代中国にも伝わる
「柔風(じゅうふう)」という病と同じだろうと。「柔風」も「虚萎病」も、そこから様々な症状に移行するものとし、それが小児麻痺や中風、筋委縮などとなるようだ。確かに「虚萎病」という命名は、その症状に即した命名であろう。実は、この虚萎病を治す薬が唯一、陸奥国胆沢郡北神家方で処方されていた。しかし処方といっても単純なもので、摘んだイラクサを
「痛痒ヲ知ラザル所ヲ頻リニ打チタタクベシ。則チ自由ヲ覚ユ。実ニ奇方也。」というものだ。イラクサはマムシに咬まれたら患部に生の葉を揉んで、その汁を塗る事により、毒消しと痛み止めとなる万能薬であり、山伏が伝えた薬だと云われる。となれば当然、遠野にも伝わっていたであろうか?単に神の祟りだとして口が曲っても、それをそのまま放置するのではなく、もしかして何かの病かと疑念を持った時に、その口曲りも治るというもの。いつまでも神の仕業にしたままでは、神の神威は保たれたままであろうが、逆に神の神意を見誤る事にもなろう。