コンセサマを祭れる家も少なからず。此神の神体はオコマサマとよく似たり。オコマサマの社は里に多くあり。石又は木にて男の物を作りて捧ぐる也。今は追々とその事少なくなれり。
「遠野物語16」
上の画像は、綾織の駒形神社の御神体の石棒。長い陽物である為、やはり馬の陽物に見立てられているようだ。しかしオコマサマとは「お駒様」であり、石を指して言うのではなく、駒形神を指して言うものであるので、この記述は間違い。もしかして御神体が同じ陽物であった為、佐々木喜善が柳田國男に説明する時に、手違があったのか?
この陽物であるコンセイサマ信仰が廃れているのは、馬の代わりに車社会となり、また人口減少に伴い、農地と農民の減少も大きいのだろう。近世でのコンセイサマ信仰は、あくまで農民中心の五穀豊穣であるからだ。だからこそ、コンセイサマ信仰と、オコマサマ信仰が結び付いて広まったのだろう。ただコンセイサマ信仰の歴史は、どれだけ遡るのかわからない。ただ、その源流がチベットではないかと云われている。
ところで
伊能嘉矩「遠野馬史稿」で
「他地方に在りては、多く道祖神と混同せらるゝを常とする。」と書き記しているが、確かに遠野地方で道祖神と刻まれた石碑は馬越峠の頂だけにしか見た事が無い為、遠野には道祖神信仰は普及していなかったのではなかろうか。ただ
「遠野物語拾遺16」で
「土淵村から小国へ越える立丸峠の頂上にも、昔は石神があったという。今は陽物の形を大木に彫刻してある。」と記されている事から、もしかしてこれは道祖神としての役割であったのだろうか?ただ、どういう名称にしろ、遠野地方を巡れば必ず陽石に当たるのは間違いないだろう。