つい近年の事である。小国村で二十二になる男と十八歳の若者と、二人づれで岩魚を釣りに山に入った。その川の河内には牛牧場の小屋があるから、そこに泊るつもりにしてゆるゆると魚を釣り、夕方にその小屋に著いて見ると、かねて知合いの監視人は里に下っていなかった。はあこの小屋には近頃性悪の狐が出て、悪戯をして困るという話をしていたが、さては大将おっかなくて今夜も里に下ったなと、二人で笑いながら焚火をして、釣って来た魚を串に刺して焼きながら、その傍で食事をしていた。すると向うの方で可愛らしい猫の鳴声がする。狐が出るなどという時には、たとえ猫でも力になるべから呼んで見ろといって、呼ぶとだんだんと小屋に近づいて来て、しまいに小屋の入口から顔を出した。小さな可愛らしいぶち猫であった。招ぎ込んで魚などを食わせて背中を撫でてやると、咽をころころと鳴らしている。今夜はどこへも行くじゃないぞと、そこにあった縄を取って猫にワシコに掛けて小屋の木に繋いでおくと、食ってしまってから出て行こうとして、色々と身をもだえてあばれる。年上の方の男はこの恩知らずと言って、腰からはずしておいた鉈を取って、猫の肩先を切ったところが、縄まで一しょに切れて向うの藪に遁げ込んでしまった。一方の若い者が言うには、猫は半殺しにすると後で祟るものだというから、しっかり殺すべしと。そこで二人で出かけて竹鑓と鉈とで止めを刺して、それを縄で結んで小屋の口に釣るしておいて寝た。翌朝も起きてその猫を見て冗談などを言っていたのだが、そのうちに外から監視の男が入って来て、やあお前たちはこの狐を殺してくれたか。本当に悪い狐で、どんなにおれも迷惑をしたか知れないと言った。なに狐なものか、あれはとぺえっこな(小さな)ぶち猫だと言って、若い衆は小屋から出て見ると、それがいつの間にか大きな狐になっていたという。これは土淵村の鉄蔵という若者の聞いて来た話である。
「遠野物語拾遺208」この話もまた、その当時の遠野人の動物に対する残虐性を示す話であるのか。正直、猫を飼っている身としては、猫が恩知らずだからといって簡単に刃物で切り付ける行為そのものが信じられない。ましてや猫というものは犬と違い、ある意味恩知らず的な性質でもある。犬は紐で繋がれても大人しくしているものだが、猫というものは、紐に繋がれるのが嫌いな動物である。その事を知ってか知らずか、二人の若者の、そのような言動と行為には眉をひそめてしまう。
ところで、陰獣は祟ると云われ、それに当て嵌まるのが狐であり蛇であり、猫である。陰陽五行での陰とは女性を意味する事から、狐・蛇・猫というものが人間に化ける場合は女性となっているのも、執念深い陰獣と云われる由縁である。その陰獣としての系統が同じ為なのか、狐が猫に化けるのも、狐が女性に化けるのも容易であるのだろう。祟るというものも、陰獣ならではで、それは江戸時代に流行った怪談話をみても祟るのは陰獣である女性ばかりである。その根源は「古事記」の伊弉諾と伊邪那美の話で、「見ないでください。」と願う伊邪那美との約束を破り、黄泉津大神となった伊邪那美に追われるのも祟りの一つである。この「古事記」の話が昔話に反映され、「鶴女房」しかり「雪女」しかり、女性との約束を破るのは男性の相場となり、女性は常に正体を隠す存在と定着してしまった。現代においても化粧で正体を隠す女性であるが、その化粧の根源もまた「今昔物語」の話の中で厠に入った女性が化物になって出てきた話に由来する。それから厠でありトイレを化粧室というのは、女性が化けた事によるものであり、それは今でもトイレで化粧直しをする女性に向けられる用語である。