二荒山神社の祭神は現在、大己貴命・田心姫・味耜高彦根となっている。これは、平安末期からも鎌倉初期に成立したであろうと云われる
「下野国二荒山鉢石星宮御鎮座伝記」によるものらしい。しかしそれは
「補陀洛山修行日記」に登場している神らしき存在を筋の通った神に置き換えただけのようである。
「補陀洛山修行日記」に登場する神のその一つは
「其姿如夜叉、著青黒衣、左手接腰右手捲二龍蛇」という青黒い衣を来た蛇神のようであった。また別に、白蛇が登場し、そして
「一人天女、其姿花麗、其齢三十余」と
「一人束帯把笏整衣冠、威儀儼密、其歳五十有余、黒白半髪也」が登場している。それは実際四柱の神でもあるのだが、そのうち白蛇は
「立神祠祭白蛇之神、是号中禅寺」と、単に中禅寺に祀ったとされる。つまり最初に登場した蛇体の神が味耜高彦根となって、天女らしきが田心姫、威厳のある神が大己貴命とされたのだろう。
「日光山滝尾建立草創日記」は、鎌倉時代に成立した国指定の重要文化財であるが、それに記されている内容に注目したい。
「滝尾籠衆山伏自別所盗出之、出羽国竜赤寺下着及三十余年」途中は略したがつまり、この写本は滝尾別所に伝来したが盗難に遭い、出羽国竜赤寺に持ち去られたが、再び滝尾社に返還されたという内容だ。竜赤寺とは、現在の山形県の立石寺となる。この立石寺は慈覚大師円仁が開祖となっているが、何故に当初は竜赤寺(りうしゃくじ)と号したのかわかっていない。ただ、赤い竜で想起されるのは、「補陀洛山修行日記」の当初に登場した蛇神である。記されている「左手接腰右手捲二龍蛇」という姿を読んで思い出すのが青面金剛である。青面金剛の姿は
「日本石仏辞典」によれば
「腰に二大赤蛇を纏う。両脚腕上に亦大赤蛇を纏い」とあり、まさに「補陀洛山修行日記」に登場した蛇神に近似している。二荒山に登場した蛇神の姿を学者は一笑に付すが、青面金剛として考えるならば筋が通るのだと思う。当然、山形県の立石寺の当初の竜赤寺とは、青面金剛を意味して号された寺名ではなかろうか。
「青面金剛」は、中世に確立されたようだ。古代においての青は黒と同じであったが、この中世の頃には「青」というものは「水」を意味する色として認識された為、恐らく「青面金剛」の「青面」は水を意味するのだろう。「金剛」は、北斗七星を意味する事から、水と北斗七星を結びつける存在が、この「青面金剛」の本来の意味だろうと考えるのだ。そして当然、それは水神でもある妙見信仰に繋がる。
また、やはり二荒山に伝わる
「草創日記」に二荒山を指して
「此嶽有女体霊神」とある事と、先の「「補陀洛山修行日記」」においても
「我は妙見尊星、大師の請いにより現れた。この峰は女体の神の居られる所だから、その神をお祀り申せ。我の棲家は中禅寺である。」事からも、二荒山の神とは女神であり、妙見神である事がわかる。恐らく「下野国二荒山鉢石星宮御鎮座伝記」では、日光連山の男体山と女峰山を分けて髪を分祀したのも、熊野修験の修法を二荒山に取り入れ日光修験を成立させた辨覺の時代に起因するものと思われる。熊野の三所権現を三光と結び付け、それを日光連山に重ねたものであろう。よって、大己貴命・田心姫・味耜高彦根は後世の祭神であり、本来祀っていた神とは鉄の蛇であるアラハバキ神に他ならないだろう。
二荒山である現在の男体山に祀られる神とは、滝尾神社の神であるのがわかった。その滝尾神社の参道には、無数の男根を象った物が祀られていたという。こういう生殖に関する信仰を持つ神とは山神であり、その男根を象ったモノ、別にコンセイサマ信仰と呼ばれるものは縄文時代まで続くものである。
二荒山の前山とされたいる太平山の三光信仰では、
太平山大権現(星)・熊野大権現(日)・日光大権現(月)となっているが、香香背男をも祀る太平山が星なのは理解できる。また、八咫烏の熊野もまた太陽であるのも理解できる。ところが日光大権現が何故月なのかは説明できない。陰陽五行での陰とは女であり月であり、水を意味するからだ。古代の祭祀の基本は、彦神と姫神という陰陽の和合で成り立っている。だが、各風土記における山において、彦神と姫神が水争いで袂を分けているのは、そのまま七夕信仰に結び付けられ、天の川が彦神と姫神を分け隔てたとする古代中国からの伝承がすんなり受け入れられたとも、そういう日本の伝承を考慮に入れたものと思われる。
上つ毛野 安蘇のま麻むら かき抱き 寝れど飽かぬを あどか我がせむ
上記は
「万葉集3404」の歌であるが、安蘇は栃木県の安蘇郡をいうのだが、古代では現在の群馬県を含む地であったようだ。その安蘇郡は、麻の名産地で養蚕が盛んであったらしい。養蚕は現在でも群馬県に盛んだが、有名なのは桐生市だ。桐生市には有名な白滝姫の伝説がある。古代においても関東一円に養蚕文化は、かなりの広がりを見せた。その中に倭文氏の進出があったのだろう。それ故に、静神社や大甕倭文神社も、その倭文氏の影響がある。
その倭文神社だが、遠野にも倭文神社があり、祭神は画像の通り、天照大神と下照姫に瀬織津比咩となっている。恐らくこれは三光信仰を意味する祭神であり、太陽は天照大神であり、下照姫は「シナテル」と「シタテル」が同義であり「シナテル」は月が仄かに光る意となるので月。そして恐らく瀬織津比咩は、大甕倭文神社や静神社を見ても香香背男そのものが星神であり、それは蛇神である事から、星神としての瀬織津比咩という事だろう。つまり、香香背男=瀬織津比咩である事を意味しての祭神であると思われる。
瀬織津比咩は、土渕の琴畑に白滝と呼ばれる滝があり、そこに祀られた神が瀬織津比咩であった。それが明治時代となり、土淵五日市の倭文神社に合祀されたのだが、白滝姫と倭文神の関係を考えてみたい。倭文氏は初めて日本に七夕に関する伝承を組み入れた氏族であり、それが以前に紹介した夷振歌に繋がるのだと思えるからだ。