皇祖神を祀ると云われる伊勢神宮に、アラハバキ姫とも云われる瀬織津比咩が祀られているのは何故なのか。伊勢神宮は、内宮と外宮に分かれる祭祀形態ではあるが、外宮の豊受大神は複雑怪奇な神であり、そもそも本当に伊勢神宮に祀るべき神なのかを考えても疑問符が付く。何故なら、出自の怪しいものは神であろうと人間であろうと、
"そういう場所"には入れる筈も無いからだ。だが、荒御魂という形で、内宮と外宮に瀬織津比咩の姿があるのは、そもそも本来の祭神を背後に置いて、表面を取り繕った作為が行われたとしても不思議ではない。
外宮の豊受大神は、天女としてどこからか飛んできた存在であり、それ以前の足取りが不明ではある。しかし常陸国の
「我国間記」において
「我国ノ御山ハ日本開始メの峰ニシテ、豊受産ノ神社有リ、後に尊ノ号ヲ常立ノ尊ト奉称。…即チ太神宮ナリ後に丹州、今ハ伊勢ニ移リシ給フ。伊勢の外宮、近江多賀大社御同神体ナリ。」と記されている事から、常陸国に着目してみる事にする。しかしこの「我国間記」の描写は、常陸国がまるで高天原であるかのような記述である。ただ高天原の解釈は、先人の学者たちが築いた軌跡でもあるから、簡単には否定もできないが、考古学の見地から言えば、関東周辺の古来からの古墳群を歴史上であり神話上どう説明するのかという疑問点が残る。景行天皇記のヤマトタケルの伝説によれば、未開の地であった筈の関東であり吾妻が、これほどの古墳群を有する国である記述は「記紀」に無い事が大きな疑問である。
「伊勢國風土記 逸文」にはこうある
「天津の方に國あり。其の國を平けよ。」と天日別命に命令する。その天津方とは、伊勢国から数百里の遥か彼方であり、それは恐らく関東近辺を言っているのだろうとされる。しかし天津という表現は、天そのものであり、それは高天原を意味していても不思議ではない。辺鄙な場所を夷とも云い、蝦夷国は都から遥か遠く離れた辺鄙な地であり、夷の地だ。
「日本書紀」の一書に歌が詠まれている。
天なるや 弟棚機の 頸がせる 玉の御統の 穴玉はや み谷 二渡らす 味耜高彦根
天離る 夷つ女の い渡らす迫門 石川片淵 片淵に 網張り渡し 目ろ寄しに 寄し寄り来ね 石川片淵
この歌は天照大神が、天雅彦に命令し
「豊葦原中國は、是吾が兒の王たるべき地なり。然れども慮るに、残賊強暴横惡しき神者有り。故、汝先づ往きて平けよ。」恐らく、この「日本書紀」の話に合わせてできたのが
「遷却崇神詞」という祝詞であったのだと思う。この祝詞には日高見という名称が登場するが、それは後で書く事としよう。その前にだ、この歌の解釈は先人も苦労していたようで、簡単に訳せば下記の通りになる。
「天上の機織女が首に掛けている首飾りの玉、穴が開いた玉のように、谷に渡る 味耜高彦根 」
「田舎女が瀬戸を渡り魚を捕るため、石川の片岸に網を張り渡したが、 その田舎女が網目を引き寄せるようにこちらへ渡って来なさい。石川の片淵よ」
簡単に訳せば意味があるような無いような歌である。ところで夷が辺鄙な意味を持つ事から田舎に住む女とも訳されるが、これは天を隔てた遠い所にいる女と訳せば、前歌の弟棚機と結び付く事となる。細かい解説は抜きにして、持論を云う事にする。まず東国に荷渡・二渡・などという神社や観音があるが、それは別に鶏とも鬼渡ともいろいろな漢字があてられているが、この歌に登場する
「二渡らす(ふたわたらす)」とは、
二荒山を指すと考える。
古代の秘伝の薬に関する本を読んでいると、とにかく簡単に解明されないよう、意味の無い漢字をあてたり、句読点を違う箇所につけたりして難解としている。その技法はわらべ歌にも伝わっており、真意を誤魔化して伝えるのは、歴史書であろうが、あるものと思っている。まあ「古事記」などでは今まで大和言葉で解明できなかったものがアイヌ語を適用してみると理解できたものもあるので、史書であろうが、いろいろな視点から見るべきだとは思っている。中途半端ではあるが、今回この辺とする。(続く)