今から約200年前、天明の頃であった。女の六部が観音像を背負い錫杖を持って霊場の巡礼の旅の途中、大槌町の滝ノ沢の岩窟を仮の宿としているところを賊に襲われたという。
この岩窟の脇には滝が流れ、そこには山神が祀られていた。また、その滝は"おたきさん"と呼んでいたという。
その女六部は、賊に襲われた際、観音像を持って逃げたが奪われると思ったのか、近くの沼にその観音像を沈めて種戸峠を越えて能舟木まで逃げたという。種戸峠は現在廃道で、今では人の往来は皆無で、獣道となっている。
能舟木まで辿り着いた女六部であったが、部落の人間に罪人と間違われ道之下敷地の老木である桧葉の傍で竹槍によって刺殺されたのだと。女六部は死の間際に
「妾の夫は要職にあったが、拠無い事情で六部となり旅立ち、その後を追って西国から来た。観音像を身体から離したまま命を落とすのは無念だ。その観音像を探して拝め。更に経文と八幡様の霊魂は桧葉の老木へ乗り移らせたので、その桧葉には刃物を入れるな。」この遺言を残して死んでいった女六部であったが、能舟木の部落民は、身分の高い六部を殺したと知り、後の災難を恐れて、遺体を他の場所へと運んで焼却し、証拠を隠滅したが、その夜に能舟木では火災が発生した。
それ以来、女六部が殺害された道之下敷地には、女六部の地縛霊が出ると恐れられ、今なお伝えられていると云う。地縛霊が出るとの道之下敷地に、当時豪傑で名の知られた字の神の屋号を持つ孫兵衛は、そんなのは迷信だと言って、部落民の反対を押し切って、その桧葉の木の下に家を建て、新たに「道之下」という屋号とし、自らも孫兵衛改め、初代平之丞と称し妻のマンとその家で暮らしたが、不幸が続いた為に部落民からは
「呪い屋敷」と噂された。
時代を経て、道之下家七代目八幡福太郎の頃、妻キノエと長女ウメ、次女ハナが祈祷師和田カツエに祈祷して貰ったそうな。その祈祷師和田カツエに女六部が憑いて話すには
「能舟木から東方、祝田の洞窟を仮の宿としていたが、賊に襲われ、観音像を耕田に沈めてあるから、見つけ出して拝め。」と告げたという。また別に、釜石市根浜の宝来館主である岩崎昭二が
「観音像は祝田団地の高清水製材所付近にあるから探してみろ。」という予言を告げた。しかし、それでも見つける事は出来なかった。
ところが、昭和48年4月7日に、釜石共栄大槌店新築工事に関連する側溝掘削工事の際、観音像が無傷で見つかったという。それは女六部や祈祷師などのお告げの言う通りであったが、鉄製の観音像であった為、周囲に錆が広がり、分かり辛かったのであろう。その発見された場所には現在、石碑と五輪の塔が建っている。
そして発見された観音像を祀る社殿が、昭和52年5月14日に建立され、それと共に道之下家で安置していた女六部の御魂を昭和53年3月23日に遷し、これによって女六部の遺言でもあった観音像と同じ社で祀られる事となった。これによって長きに渡った、道之下家の呪いの宿命の帰結と悲願が達成されたのだろう。
別当から見せていただいた観音像の姿は、恐らくその造形から十一面観音であると思う。女六部が仮の宿とした滝のある岩窟もまた、その信仰が導いたものであろうし、女六部が逃げた能舟木の途中には熊野神社が鎮座している。恐らく、女六部は熊野修験の関係であり、その導かれるままの行程での不幸な出来事であったのだと思われる。面白い話として、しばしば女祈祷師に観音様が憑依するらしいが、かなりの凶暴な性格の様で、女祈祷師はその都度"荒ぶる女神"になったらしい。
その女祈祷師に関する話も面白く、髪は赤毛で、体系も含めて日本人には見えなかったという。その血筋は、橋野溶鉱炉に外国人が働いており、その外国人の血を受け継いでいたとしている。実際にその写真を見せられたが「遠野物語」に登場する山女や天狗を想像してしまうほどのものであった。天狗や赤ら顔の山男・山女の外国人説があるが、信憑性は高いのではなかろうか。