近江雅和「記紀解体」によれば、磯部氏から出たのが度会氏だとして、その磯部氏は伊勢を離れ、上野国へ移住している。そこで作られたのが
「子持山伝承」であった。物語形式のこの伝承は、取るに足りない話なのかもしれないが、かなり興味深い内容になっている。先に紹介したように、伊勢神宮の荒祭宮に祀られる神は
「アラハバキ姫」と称された。そのアラハバキ姫は鈴鹿出身の女性で、後には夫婦神となり、夫は
鈴鹿明神となり、その妻は
津守明神となった。その鈴鹿の津守明神が伊勢神宮の荒祭宮に祀られるのだが、その荒祭宮は時々鳴動する荒ぶる神であったようだ。
ところで、坂上田村麻呂伝説に登場する鈴鹿山の鬼女の果ては、坂上田村麻呂と共に蝦夷国へと行き蝦夷征討の助けとなって、烏帽子姫として姫神山に祀られた。鬼が最後は、神として祀られたという事になる。その鬼ではあるが、外宮に祀られる豊受大神もまた、鬼の性格を有している。
中山太郎「さんばい考」では
「通称、鬼役といわれるお毒見役を務めるのが外宮の性格であり、豊受大神は散飯鬼である。」としている。散飯鬼とは、太元明王であり曠野鬼神とも呼ばれ、北方鎮護の毘沙門天の眷属でもある。その毘沙門天の現人神とも云われる坂上田村麻呂もまた、鈴鹿の鬼女を調伏し、眷属としているのを付け加えておこう。そして姫神山に祀られた神こそは、伊勢神宮の荒祭宮に祀られる瀬織津比咩という神でもあった。
荒祭宮に祀られる神が荒ぶる鬼女でもあったのだが、外宮の性格もまた荒ぶる鬼女でもあるのはどうした事か。
「続日本記」に
「文武天皇二年十二月乙卯、多気大神宮を度会郡に遷す。」とあるのは、瀧原宮にも祀られていた地主神を祀り取られ、まとめて宇治に引っ越したという事である。しかし宇治の地には、やはり荒祭宮に祀られていた地主神がいた。そこで大和朝廷は、南伊勢の土着の農民であった荒木田氏を登用し内宮で天照大神を祭祀させ、皇大神宮の最高の神主である禰宜ととしたのは、磯部氏と度会氏の弱体化を図る為でもあった。しかし、地主神が祀られていた伊勢に強引に天照大神が割って入った為に、内宮敷地内の荒祭宮を残して、地主神の祭祀は分断されてしまったが、渡会氏は外宮を打ち出して対抗した。それから暫くは、内宮と外宮の争いが続くのだが、その外宮に祀られている地主神の存在を見てみよう。
まず、度会氏の求めたものは前回書いたように、外宮の立場が内宮を上回るという野心だった。それはつまり、天照大神よりも豊受大神の存在を高める事に尽くしたという事ではある。しかし、ここで考えなければならないのは、天照大神が伊勢に鎮座した為に、磯部氏や渡会氏が祀っていた地主神が追いやられたという事。その地主神をさて置いて、やはり他から運ばれてきた豊受大神という存在に思い入れを持てたのか?という疑問が生じる。何よりも外宮の立場を高めた度会氏は、外宮を月の宮とする事で、豊受大神を御饌都神から水の古語である御気津神、つまり水神の最高位に置いたという事である。
ここで、伊勢神宮の祭祀状態が記されている
「元初の最高神と大和朝廷の元始」を確認してみようと思う。まず荒祭宮の天照大神の荒御魂である瀬織津比咩だが、月殿に於いての御魂の形は、天鏡の尊鋳であり、多賀の宮の御魂と同じとしている。ここでの疑問は、日の宮である筈の内宮の敷地内にある荒祭宮の神が月であると言っているようなものだ。
また、豊受大神の荒御魂は伊弉諾が右目を洗い化生した月天子であるとし、それは天御中主命であるともし、またそれは多賀の宮と同じであるとしている。それでは多賀の宮を見てみると、豊受大神荒御魂の名は、気吹戸主であるとし、もしくは神直日大直毘神であるとしている。この多賀の宮に坐す気吹戸主とは「大祓祝詞」においての祓戸四神のうちの一柱の神である。また、神直日大直毘神も調べれば、穢祓によって誕生した神であり、それは八十禍津日神を解体し四柱の神の二柱の神に過ぎない。
神直日・大直毘神は、京都の櫟谷宗像神社に祀られる田霧姫と市杵嶋姫命の二柱の神に、渡月橋を挟んだ対岸の大井神社の神を合わせて、宗像三女神となるとされていた、その大井神社に祀られていたのが神直日大直毘神であったが、それは八十禍津日神の解体された神であった。その八十禍津日神神とは、天照大神の荒御魂である瀬織津比咩である。つまり、天照大神であり、豊受大神の荒御魂とは、どちらも瀬織津比咩であるという事になる。これは先に記してきたように、度会氏が伊勢での対抗手段として内宮所属の荒祭宮の祭祀権を行使して外宮の力を強大にし、豊受大神をも利用して、地主神であった
アラハバキ姫である瀬織津比咩の祭祀を大和朝廷から密かに隠れて作り上げたものであると考える。
ここで、アラハバキ神に関する教義を振り返ってみよう。これは蝦夷国において、安倍氏が信仰していた内容と同じものである。
「天・地・水を基として、日輪を父なる神とし、万物を育む地であり山であり、そして水を母なる神とする。」
これは度会氏が豊受大神を御気津(水)の神として新たに作り上げた神話と内容が近似している。度会氏の拘りは、水の神に一貫していたのは、敢えて丹後国から来た止由気を豊宇気毘売神と豊受大神分離させ、豊宇気毘売神を単なる御饌都神にして、豊受大神を水神の最高位に据えた事だ。しかしそれは背後に元々祀っていた地主神を荒御魂に据え、内宮と外宮の両方の祭祀権を得る為の策略であったという事だろう。
「日本書紀(垂仁天皇二十五年三月)」に天照大神が登場し、伊勢のイメージを言葉に表している。
「是の神風の伊勢國は、常世の浪の重浪歸する國なり。」
常世とは、永久に変わらない神域。死後の世界でもあり、黄泉もそこにあるとされる。「永久」を意味し、古くは「常夜」とも表記した。」つまり常世とは、夜の世界である事から、垂仁天皇記での「是の神風の伊勢國は、常世の浪の重浪歸する國なり。」とは月の光を浴びた波が押し寄せる意でもある。それはつまり、伊勢神宮そのものが月を重視している意味でもある。
荒祭宮に祀られる天照大神の荒魂は水神でもある瀬織津比咩となるのだが、それでは一つの神として和魂と荒御魂の二つがあるなら、その属性は同じであるべきだった。しかし、天照大神は日の神であり、荒御魂である瀬織津比咩は月神であり水神であるのはおかしいと考えてきた。しかしそれは、あくまで伊勢神宮という存在そのものが月の宮であり、表向きは日天子と月天子を祀る内宮・外宮の両宮に分かれてはいるが、表向きの祭神のどちらの荒御魂が月天子であり水神である瀬織津比咩である事から、伊勢神宮の本来は月の宮であり、それはアラハバキ神の教義にも合致するのである。