明治も末のある年、土淵村栃内大楢の大楢幸助という兵隊上りの男が、六角牛山に草刈りに行って、かつて見知らぬ沢に出た。そこの木の枝には、おびただしい衣類が洗濯して干してあった。驚いて見ているところへ、一人の大男が出て来て、その洗濯物を取集め、たちまち谷の方へ見えなくなってしまったという。これは本人の直話である。
「遠野物語拾遺102」画像「2013.5.7の六角牛山」
「注釈遠野物語拾遺」によれば、物語に登場する大楢幸助は間違いで、正しくは長洞幸助であるという。どうも、住んでいた地名が苗字に反映されたようだ。これは明治の末の話であるから、今の遠野に生きている高齢者にとっては身近な話であり、登場する人物も、未だにリアリティがあるのだろう。
そのリアリティだが、
菊池照雄「山深き遠野の里の物語せよ」には、こう書かれている。
この山の内部の地質的な構造も、人間を住みやすくしている。地元で、ガラダチあるいはガラ場といわれる大小の岩石が重なっているところに、空洞ができている。またこの山は地質的には石灰岩の山塊である。石灰岩は水に溶けやすい。ここには、大きな鍾乳洞こそないが、畳二、三枚程の空間の穴はいたるところにあった。・・・この石灰石の穴である鍾乳洞に住むと、自動温度調節の快適な住居となる。石灰岩の穴は、第二の母の胎内といってよい。山に住む女と、山に住む男がいた。菊池照雄によれば、それは六角牛山の地質が適していたと述べている。実際に六角牛山から白望山にかけては、金属集団が住み付いていた。「遠野物語」に登場する
"長者屋敷"と云われるものは、金山を経営していた長の下で働く人夫の住む長屋の事であった。「遠野物語拾遺102」において、大量の洗濯物が干されてあったというのは、そういう長屋に住む連中の洗濯物を、洗濯当番が、まとめて洗っていたと思われる。
里に住む者達にとって、冬の山は閉ざされた空間となる。遠野の冬を体験すれば、とても山の中には住めないものと思うのだろう。しかし、そういう閉ざされた空間の山だと思っていた地に、住む者達が居た事実がある。ここに、山に住む者達と里に住む者達の意識の違いが垣間見れる。
日本人の一般的人々が山に登り始めたのは、西洋のアルピニズムの影響を受けた明治時代からであった。しかし、それはあくまで日本の首都を中心に広がりつつあったものであり、恐らくそれが遠野にたどり着いたのは、早く見積もっても大正時代であったろうか。実際、この「遠野物語拾遺102」は明治の末の話であり、山で沢山の洗濯をしている男を見て驚いていたのは、山に住む者などいる筈も無いという先入観によるものであったろう。そう、山には人が住んでいたのである。