この菊蔵、柏崎なる姉の家に用ありて行き、振舞はれたる残りの餅を懐に入れて、愛宕山の麓の林を過ぎしに像坪の藤七と云ふ大酒呑にて彼と仲善の友に行き逢へり。そこは林の中なれど少しく芝原ある所なり。藤七はにこにこととしてその芝原を指し、こゝで相撲を取らぬかと云ふ。菊蔵之を諾し、二人草原にて暫く遊びしが、この藤七如何にも弱く軽く自由に抱へては投げらるゝ故、面白きまゝに三番まで取りたり。藤七が曰く、今日はとてもかなわず、さあ行くべしとて別れたり。四五間も行きて後心付きたるにかの餅見えず。相撲場に戻りて探したれど無し。始めて狐ならんかと思ひたれど、外聞を恥ぢて人にも言はざりしが、四五日の後酒屋にて藤七に逢ひ其の話をせしに、おれは相撲など取るものか、その日は浜へ行きてありしもをと言ひて、愈狐と相撲を取りしこと露顕したり。されど菊蔵は猶他の人々には包み隠してありしが、昨年の正月の休に人々酒を飲み狐の話をせしとき、おれも実はと此話を白状し、大に笑はれたり。
「遠野物語94」
「注釈遠野物語」では藤七は実在する人物であると記されている。土渕町柏崎の愛宕神社の別当家で、墓碑には
「大授院広闊道貫居士 象坪藤七 五十七歳 大正八(一九一九)年三月」とあり、無類の酒好きであったのは確かだという。
画像の山は象坪山で愛宕山でもある。ここにも愛宕神社があるが、藤七は柏崎の愛宕神社の別当家であるが、この愛宕神社と柏崎の愛宕神社は山口部落の入り口の手前に鎮座しており、狛犬の様に二つ向かい合わせになっている。そういう意味では、柏崎の愛宕神社と何等かの繋がりがありそうである。
相撲で有名なのは河童で、無類の相撲好きらしい河童と人間が相撲を取った話は全国無数にある。また
「遠野物語90」は、ある意味天ヶ森の山男か天狗に相撲を挑んで負け、祟りに遭った話でもある。
折口信夫「河童の話」の文中に
「古代の相撲は、腕を挫き、肋骨や腰骨を蹴折る、といった方法さえあったようである。」と記されている様に、現代のルールに縛られている相撲よりももっと激しい命の取り合いであったようだ。
ただ「遠野物語94」での狐は、相撲に勝つと云うより餅を奪う手段として騙す為に菊蔵と相撲を取ったものである事は明らかだ。だが本来、相撲には勝ち負けが付くもので、その勝った褒美として餅が与えられるものであろうが、よく
「試合に勝って勝負に負けた。」「試合に負けて勝負に勝った。」などという言葉があるが、本来は「相撲に勝って勝負に負けた。」から発生した言葉であった。ここでの
狐は「相撲に負けて、勝負に勝った。」という事だろう。
平林章仁「七夕と相撲の古代史」では、その相撲に対する考察が成されている。「日本書紀」垂仁紀七年七月七日に、当麻蹴速と野見宿禰の相撲が行われ、これを相撲節の起源とされている。当麻蹴速は
「四方に求めむに、豈我が力に比ぶ者有らむや。何して強力者に遇ひて、死生を期はずして、頓に爭力せむ」という命をかけるほどの自信が当麻蹴速にはあったようだ。しかし一人の家臣が出雲国の野見宿禰を推奨し相撲を取ったが、野見宿禰が肋骨などを折られるなどの激しい格闘の上に勝利したようだった。これが垂仁7年(紀元前23年)の事になるが、日本のでの一番古い相撲はやはり国譲りの神話に記される武甕槌と建御名方との力比べなのだろう。一節には建御名方神は両腕をもぎ取られたとも伝えられるが、やはり古代の相撲は生死をかけた激しい戦いであったのだろう。奈良時代である神亀三年(726年)に
「突く殴る蹴るの三手の禁じ手・四十八手・作法礼法等が制定」とある事から、これから現代まで続く相撲の歴史が始まったのだろう。
「七夕と相撲の古代史」には
「なぜ相撲をとったのか」という項があり、様々な説が記されている。
折口信夫は
「遠くの神がやってきて精霊を圧伏し土地の守護を誓わせるという神事としての演劇である。」という説に対して、著者である平林章仁は、それを否定している。確かに垂仁紀での相撲は、骨折などをしてまでの死闘であり、演劇であるという説は成り立たないものであろう。また、村々で行われた相撲の場所は水辺であり、これは水神への信仰から、後には河童などの水の精霊が相撲を好む伝説となったと説いている。
和歌森太郎は、七夕は盆の前提行事の日であるから、水浴びや潔斎を行った関連で相撲が行われたとし、目には見えない河童との相撲を取る独り相撲が一種の舞となって相舞(すまい)と称されたのが相撲の語源であり、水神祭の折に年の後半の稔りの豊凶を占う年占としての相撲であったと説いているが、垂仁紀での相撲とは別物では無いかと疑問を呈している。
寒川恒夫は、相撲は世界的に分布し、男だけでは無く女相撲、男女相撲もあり、豊穣儀礼や死者記念祭と結び付くとし、
山田知子の、災禍の原因となる死者の荒魂や悪霊を鎮め追い払う為に相撲が行われたとの説を紹介し、七月七日の相撲の前日である七月六日が、景行天皇の母である日葉酢媛命の死んだ日であるから、確かに日葉酢媛命の死んだ翌日に相撲を取るというのは、霊を鎮める為の説が有力であるのだろう。
「遠野物語94」での狐の相撲は人間を化かし餅を奪う為の手段であったろうが、人間が狐や河童、山男や天狗などと相撲を取るという話は、どこか、この世と異界とのせめぎ合いを表現している話でもあるような気がする。相撲が霊を鎮めるものであるならば、それは精霊でもある存在にも影響するのだろう。狐が餅を奪う手段として相撲も選んだのも、人間の霊と狐の霊のせめぎ合いを表し、相手を納得させる為の事であったろう。相撲で勝った方が褒美を貰うだけではなく、人間の楽しみとなった相撲を取り、負けてあげた事により、人間である菊蔵が満足してくれたという事に対しての褒美が餅であったと考えても良いだろう。だからこそ、菊蔵は狐を怨む事無く、単なる笑い話として吹き飛ばしてしまったのは、人間界と異界との楽しく互いの霊が触れ合う相撲であったからなのだろう。