白望山(しろみやま)は「遠野物語」や「遠野物語拾遺」に多く登場する有名な山だ。
伊能嘉矩「閉伊地名考」では、アイヌ語で考察され、白見は
「石・矢の根」の意味であるとされている。アイヌ語からの地形の言葉を適用したわけだが、白望山は長者屋敷を経るなどして、その稜線は立丸峠・川井村方面へと延びているのは、確かに矢の根と捉えて良いのかもしれない。
その白望山の麓に、琴畑という古くからの集落がある。
菊池照雄「山深き遠野の里の物語せよ」で菊池照雄は、秦氏がこの地に移り住み、畑仕事の合間に琴を奏でたので琴畑と書いてある。確かに秦氏は、朝廷が新羅仏教から任那仏教に切り替えた時にお払い箱と成り、日本全国に散らばって、氏名を変更したりした氏族である。その多くは、北陸などに住み着き、その技術を生かして朱塗りの椀などの政策を手掛けて居付いたようだ。それ故、白望山に関わるマヨヒガの伝承の中に、朱塗りの椀が流れてくる話は、確かに秦氏との関連を感じる。
琴畑集落に住む人々は、元々別の姓の集まりだったが、明治時代に百姓も姓を名乗って良いという事から、挙って琴畑姓を名乗ったという。その中には、本来は阿蘇という姓で、九州から移り住んだという家系も琴畑集落内にはある。
その九州の宮崎県に、
銀鏡(しろみ)という地域がある。その銀鏡地域には、今でも多くの菊池氏と秦氏の家系が住んでいる。その銀鏡地域には、銀鏡神社というものが鎮座しており、山神の娘と云われる石長比売を祀っている。伝承には、磐長姫が鏡で自らの醜さを垣間見、その自分の顔が映った鏡を投げ降りた場所に、銀鏡神社を建立したという事だ。
サントリーの佐治会長の
「東北は熊襲の国」発言は、熊襲と蝦夷を混同したものだった。それは、混同しやすい文化を蝦夷と熊襲は有していたからであったのだろう。熊襲と近いものに狗奴国がある。どちらも狩猟民族であったと云われる。その狗奴国の党首は狗古智卑狗で、中世に名乗りを上げた菊池氏の原型だとも云われる。その熊襲は、アイヌ人と云われている。九州に住んでいた熊襲であるアイヌ人が朝廷に追われて北へと逃げ、最後に行き着いた安住の地が北海道であったと云う。とは言っても、全てのアイヌ人が北海道へ行ったわけでもなく、日本列島を縦断している最中に、あちこち点在して住み着いたのだろう。その一つが東北である蝦夷国である。つまり地名を考える場合、アイヌ語の採用は良いけれど、その大元である九州はどうであったのかも意識しなければならないだろう。
そのアイヌ人の原型に近い、狗奴国の党首である狗古智卑狗は熊襲でもあり、菊池氏の原型でもあると云われる。蒙古襲来時に活躍した菊池一族は、その勇猛果敢さから蒙古撃退に活躍したのは、その血の為せる技であったのかもしれない。
その菊池氏や秦氏が住み着く宮崎県銀鏡地は、あくまでも銀鏡(しろみ)という音で呼ぶ。日本語に使用される漢字は、後であてられたものであるから、九州の銀鏡(しろみ)と、遠野の白望(しろみ)は同じ意味であるべきだ。ただ九州の銀鏡には「銀」という漢字があてられている。「銀」とは白金(しろがね)と古くから呼ばれ、黄金は金、白金は銀、黒金は鉄、赤金は銅などと、金属を「金」という総称で読んでいた時代での銀とは白を意味していた。つまり銀鏡とは、銀製の鏡を意味している。鏡は見るものであるから、銀製の姿見で、自らを見るで銀鏡なのだろう。
白見山の背後には金糞平と呼ばれるタタラ跡がある事から、白見山周辺は金属の採掘が成されていたというのがわかっている。遠野から望む白見山の背後は大槌町となる。製鉄に結びつく伝説の中に、鬼が登場しているのだが、その鬼とはなんだったのか。つまり地域住民とは縁の無いものを鬼と呼んだのならば、鬼とは余所者であったのだろう。記録的には、大槌町の製鉄は平安時代まで遡る事が出来るが、それから遡ればどこまで行き着くのかわからない。ただ、東北である蝦夷国は逃げ延びた人間達が移り住む地でもあった。古くは、蘇我氏に敗れた物部氏が逃げ延び、朝廷に追われた秦氏が逃げ延び、兄である頼朝に追われた源義経が逃げ延び、南北朝の争いで長慶天皇が逃げ延び、近代では幕府側の土方歳三は福島経由で、北海道へと逃げている。北という地域は、為政者によって追われた者達の終焉の地となっている。
つまり安住の地を求めて逃げ延びてきた者達は、定住した地域に、文化や言語を持ち寄っている筈だ。また琴畑には、早池峰の遥拝所が2か所ある。その早池峯の女神は瀬織津比咩だが、銀鏡神社から流れ下る銀鏡川を下ると、その川沿いに磐長姫を祀る銀鏡神社と木花咲耶姫を祀る都万神社があり、何故かその間、つまり、上津瀬に磐長姫を祀る銀鏡神社、下津瀬に、木花咲耶姫を祀る都万神社、そして中津瀬に瀬織津比咩を祀る速川神社が鎮座しているのは偶然だろうか?
先程書いたように、民族の移動によって言語や文化と共に、信仰もまた伝わってくる。白望山周辺や、その麓である琴畑の習俗を考えた場合、白望山がアイヌ語の「石・矢の根」の意であると断定はし辛い。白望山も本来は「しろみ山」であり「白望(白見)」という漢字は、後からあてられたものであるだろう。自分は「しろみ山」は音で伝わり、後から「白望(白見)」があてられたが、本来は「銀鏡(しろみ)」の地名が遠野まで伝えられたものと考えたい。ただ、山伏用語で百と白は金鉱石を意味し「ミ」とは、鉱石そのものを意味する。つまり
山伏用語で
「シロミ山」とは
「金鉱石の内包する山」の意にもなるので、捨てがたい説だ。