明治もずっと後になってからのことであったが、小国の方から土渕村へ、若い男女が物に追われるようにしてやって来た。この二人の跡を追って来た刀を持った男に、林崎の田圃の中で追いつかれて、男も女も少しの手向いもせずに、斬り殺されてしまった。どういう事情があったのであろうか、二人を斬った男はほろほろと涙を零しながらこの二人の屍体を路傍に埋め、女の髪に差していた笄を墓のしるしに立ててから、もと来た方へ戻って行ったという。これを見ていた老婆達が、今でもこの話をしては涙ぐむのである。
「遠野物語拾遺233」
明治時代の、かなり後の話と言う事だが、明治9年(1876年)3月28日に廃刀令が制定されている。刀は蛮習という事で所持は良いが、帯刀はダメという事らしい。現代の銃砲刀剣類所持等取締法に近いもので、その初めの頃の法律のようだ。刀狩りは秀吉の時代にもあったが、反乱・一揆などを封じ込めるものであったろうが、この法律が後々に日本の治安の良さになっている。
しかし、この「遠野物語拾遺233」では既に廃刀令が制定されているのにも関わらず、刀で男女を斬り殺している事から、当然これは犯罪となる。しかし明治時代の犯罪記録は、現在の警察記録には残ってないらしく、想像の域を出ない。ただ戦乱の世から太平の世と云われた江戸時代でも、当初は一部の地域で動乱があり、幕府体制に刃向うものもいた。忍びなどもまた、仕えていた大名などが取り潰しに遭い、主を失った忍びが犯罪に走る場合もあったという。遠野に於いては、南部時代である江戸時代に、場を失った葛西の浪人が峠で山賊紛いの事をしていたという話も伝わっている。ただ、この「遠野物語拾遺233」では、人に言えぬ余程深い事情があったのだろうが、こうして禁止されている刀をもって人を斬り殺したとなれば、それだけで死罪となるような事件であるのだろう。
柳田國男の言葉を借りれば
「路傍の石碑の多き事、諸国類稀を知らず。」は、神を崇める石碑の他に、遠野には多くのわからない墓石も多く残っている。遠野の人間であれば、その亡骸は地域の共同墓地か、個人所有の土地の片隅にでも埋葬され供養されるのだろうが、路傍の誰なのかわからない墓石は、この「遠野物語拾遺233」のように死んでいった人達を供養する為に建てられたものなのかもしれない。