【画像は淀川】
ゆく川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人と栖と、またかくのごとし。
玉敷きの都の内に、棟を並べ、いらかを争へる、高き、卑しき人の住まひは、世々を経て尽きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。あるいは、こぞ焼けて、ことし造れり。あるいは、大家滅びて、小家となる。住む人もこれに同じ。所も変はらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。朝に死に、夕べに生まるるならひ、ただ水の泡にぞ似たりける。
知らず、生まれ死ぬる人、いづかたより来たりて、いづかたへか去る。また知らず、仮の宿り、誰が為にか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる。その主と栖と、無常を争ふさま、いはば朝顔の露に異ならず。あるいは露落ちて花残れり、残るといへども、朝日に枯れぬ。あるいは花しぼみて露なほ消えず。消えずといへども、夕を待つ事なし。
「方丈記 序文」
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長谷観音へ行こうと思ったが、少々寄り道を。上記は有名な「方丈記 序文」で、これは水の流れを人の動きに捉えての文章というのは広く知られている事。先に京都は水の都であり、水の霊力に頼ったのではないかと書いたが、人の流れは水の流れでもあると考えれば、京都には別の呪力が施されている可能性があるのかもしれない。
実は、平安時代後期の
「大鏡」には、こういう一節がある。
「小一条の南、勘解由の小路には石だゝみをぞせられたりしが、まだ侍ぞかし。宗像の明神おはしませば、洞院小代の辻子よりおりさせ給しに、あめなどのふるひのれうとぞうけたまはりし。凡そその一町は人まかりありかざりき。」
洞院は東洞院の略で、南北に通じる路らしい。小代は、小代小路で、ともかく平安京に巡っている小路や辻に
宗像明神がいるという事となっている。洞院小代の辻子は、東洞院大路と小代小路とを結ぶ東西の通路で「延喜式」の規定にない小路であり、宗像の神を祀る為に開かれたとされている。その宗像明神は「三大実録」によれば、貞観元年(859年)に筑前国から勧請されたようだ。平安京が造られてから、65年後の事となる。平安京の路は碁盤目の様になっており、これもまた京都全体に広がる川のようである。その川の様な平安京の内部に、水神である宗像神が祀られている。
この宗像神は
「平安通志」によれば
「皇居御内ニアリ、田心姫、湍津姫、市杵嶋姫命を祀ル、此地古昔小一條ト云フ、初藤原冬嗣宗像ノ教ニヨツテ此ニ居リ、社ヲ建テ祀ル、小一條宗像是ナリ」
この神社は筑紫より勧請され現在、京都御苑内の南西の林中にあると云うが
「花山院家記」には、こう記されている。
「此所往古之霊地遷都以前之旧第也聖徳太子摂政之時衆星飛降現千霊石上其後有宗像大神之告閑院左大臣冬嗣公居干此」
つまり、この宗像大神を祀る地は、遷都以前から星が降って神霊が宿っている地であるという。元々神霊が宿る地に、後から宗像神を勧請したという事。遷都以前に星が降ったと云う地は、他に比叡山がある。恐らく時代的に、降った星とは北斗であり、北辰、つまり妙見神であったろう。そこに水神としての宗像神を勧請したのだが、それはつまり、星が降った地の神霊と水神である宗像の神との繋がりがあったからに違いないだろう。
また同じ時期に、桂川沿いに櫟谷宗像神社が勧請されているが、この櫟谷宗像神社には田心姫と市杵嶋姫命の二柱の神だけの勧請で、もう一柱の神は、渡月橋側にある大井神社で、この大井神社の神を含めて宗像三女神となると、櫟谷宗像神社の社伝にあるのだが、大井神社に祀られている神は、湍津姫では無くて八十禍津日神の分割神であり、つまりその正体は瀬織津比咩であった事。この水神である瀬織津比咩は遠野においては妙見神と結び付けられる事から、恐らく京都御苑の星が降臨した地に鎮座していた元々の神とは、瀬織津比咩では無かったろうか?
そうであるならば、天智天皇時代に琵琶湖の佐久奈谷に鎮座していた桜明神と呼ばれた瀬織津比咩が、その水の穢祓の能力から天智天皇時代に佐久奈度神社を創建し、「大祓祝詞」が造られ、橋姫神社に分霊され、そして水の穢祓の力によって、京都から宇治川経由で合流した淀川を伝い、摂津にまで七瀬の祓所が制定された。そして今度は、遷都された平安京に、水の流れを人の流れに見立てて、その穢祓の霊力を施そうとしたのではなかろうか?(続く)