万葉集で「たぎつ瀬」と表現された宇治川は、瀬田川→宇治川→淀川と名前を変えて大阪湾へと流れ込んでいる。そしてこの琵琶湖を水源とする宇治川であり淀川の支流の数は、日本一という事だ。つまり、京都を含める近畿地方は、この水系が毛細血管のように張り巡らされている。
「古事記」を読むと、伊弉諾と伊弉弥は日本列島である島々を生んだ後に、その島々を水で巡らせるかの様に、海神を生み、いくつもの水神を生み出している。これはつまり、日本列島の島々の禊を意味しているのではないだろうか。禊の原型は海水に浸る事から始まったようだが、どちらにしろ水の霊力に頼っての禊祓である。つまり、人が住む為に、その地を浄化するという意味で、誕生した日本列島を水で取り囲んだと考えて良いかもしれない。
この宇治川水系を含む京都は、794年の桓武天皇時代に山背国、葛野・愛宕両郡の地に、唐の都長安に見倣い造られた平安京という帝都であった。その平安京は、
夢枕獏「陰陽師」で
「四神相応の都」として一躍有名になったが、
田中貴子「安倍晴明の一千年」によれば、「四神相応」という熟語自体は12世紀になって造園法の
「作庭記」によって記されているのが最初であるという事だ。田中貴子はその代り「伊勢物語」の注釈書である
「和歌知顕集」を紹介している。
「この所聞きしよりは、見るはまさりたりければ、賀茂大明神を鎮守として、我が王法のすゑたへざらんかぎりは、末代にもこの宮こをほかへうつすべからず、と御心に祈請しつつ、土にて八尺の人かたを造りて、くろがねをもて鎧をし、ひをどして着せつつ、あしげなる馬の大なるに乗せて、王城を長く守護せよとて、東山阿弥陀が峰といふ所に、西に向かへて高く埋ませ給てけり。天下にわづらひあらんとては、かの塚、今も騒ぎはべるなり。」
つまり平安京は、賀茂大明神を土地の守りとしているという事。宇治川は確かに現在、京都府を流れるものの、平安京当時は属していない。ただ、桂川・賀茂川・宇治川が合流し淀川となっている為、その川の繋がりを意識した場合、一大水脈が京都全体を覆っているのがわかる。そう京都は、水の都と言っても良いのだろう。その平安京を守る賀茂は、八瀬のある愛宕(おたぎ)郡に属している。
「山城国風土記逸文」に、下記の話が伝えられている。
「玉依日売、石川の瀬見の小川に川遊びせし時、丹塗矢川上より流れ下りき。乃ち取りて床の辺に挿し置き、遂に孕みて男子を生みき。人と成る時に至りて、外祖父、建角身命、八尋屋を造り、八戸の扉を堅て、八腹の酒を醸みて、神集へ集へて、七日七晩夜楽遊したまひて…。」とある。
この文には、七と八という数字が綴られている。七も八も聖なる数字であり、七は世界的にも聖なる数字となっており、日本国においては
「神世七代で始まる国(日本書紀)」とされている。八は多いという意味を有し、つまり「山城国風土記逸文」には八を散りばめた神世の宴が繰り広げられている様を表している。
また七といえば、平安京は長安の都に倣って築かれた帝都であるが、
中野美代子「仙界とポルノグラフィー」によれば、その長安には北斗七星の呪術が施されていると云う。陰陽五行においての北斗は北であり、水を意味する。京都では死者を葬る時、七曜星形に並べた七個の丸い餅を七段、合計49個積んで供える風習が未だに残っているのは、京都には北斗七星を含んだ妙見信仰が根付いているという事ではなかろうか。北斗は死を司ると云われ、それに関連する七と云う数字は不吉な数字にもなる。仏事における七という数字は、初七日に始まり7×7=49として、四十九日の法要があり、7回忌、17回忌、27回忌など、7と云う数字を絡め、非常に死の匂いを感じる。
福永光司「道教と古代日本」での一節に
「宇宙の最高神・天皇大帝である唯一絶対性の故に同一視され、この天皇大帝の住む天上世界の宮殿が紫宮もしくは紫微宮(紫宸殿)と呼ばれるに至る。」とある。上記の画像
「妙見曼陀羅」を見ると中心に紫微宮がおかれ、それが下界と接するのが瀧であり水であり、水の女神のようである。それは延暦15年(796年)に桓武天皇が大衆が北辰を祀る事を禁じた勅令を見ても、いかに桓武天皇が妙見を信仰していたかわかるのである。
平安京は葛野郡と愛宕郡の地に築かれた帝都であるが、先に紹介した八瀬は愛宕郡にある。愛宕郡の八瀬は比叡山の麓と成る。その比叡山は
「歓心寺縁起実録帳」によれば
"北斗七星降臨の霊山"とて伝わり、恐らく桓武天皇はその比叡山を意識して、都を築いたのだろう。
九州における妙見とは、水神である。妙見曼陀羅を見てもわかる通り、妙見と水とは切っても切れない縁となっている。七は死の匂いがするとは書いたが、平安京を築いた桓武天皇は
「近江大津の宮において制定された永遠不変の律令に従って万機を総攪する。」と宣言している。近江大津宮とは、父である天智天皇の築いた、未だ謎の都である。律令に従うとしているのは、その父である天智天皇の法体系を継承するという意味であり、恐らく桓武天皇は律令だけでなく、天智天皇の信仰の意識をも受け継いだのであると考える。何故なら、天智天皇時代に作られたのは
「大祓祝詞」であり、その祝詞には天津罪、国津罪という、あらゆる罪に対する事が記されている。それを水の力によって流す、つまり罪や穢れを浄化しようという考えをも継承したのだと考える。
比叡山の麓の八瀬は、かって七瀬と呼ばれていた。七瀬が、いつの間にか数多い瀬を意味して八瀬となったとする説もあるが、その変遷の過程は曖昧であると思う。ただ七も八も、先に記した様に聖なる数字となる。七は妙見などの星に繋がり、八は多くの神々に繋がる。考えようによっては、七を以て八を支配するとも考えられる。その八瀬には天満宮が祀られているが、その創建は
「洛北誌」によれば、道真公が幼少の頃であると云う。つまり菅原道真が怨霊になる以前であると云う。考えてみれば、今でこそ天満宮とは菅原道真の代名詞となるのだが、要は天満宮とは天神を祀るものである。後に菅原道真が天神として祀られたに過ぎないのだ。
それでは次は
「瀬織津比咩雑文(七瀬と八瀬)其の一」で紹介した長谷寺に戻って、泊瀬=八瀬の意味と天神などについて言及し終としよう。(続く)