山口、飯豊、附馬牛の字荒川東禅寺及火渡、青笹の字中沢並に土渕村の字土淵に、ともにダンノハナと云ふ地名あり。その近傍に之と相対して必ず連台野と云ふ地あり。昔は六十を超えたる老人はすべて此連台野へ追ひ遣るの習ありき。老人は徒に死んで了ふこともならぬ故に、日中は里へ下り農作して口を糊したり。その為に今も山口土淵辺いては朝に野らに出づるをハカダチと云ひ、夕方野らより帰ることをハカアガリと云ふと云へり。
「遠野物語111」現在、デンデラ野には
「あがりの家」として
「ハカアガリ」を意図した住居が建っている。江戸の三大飢饉とは云うが、東北は四大飢饉とも云われ、いやそれ以外にも僅かな飢饉も含めば、遠野の歴史は飢饉の歴史となるほどに、生きていくには厳しい土地だった。それ故に、齢60を過ぎれば自ら身を引き、自分の食べるものは子供や孫たちに与えようとした。つまり老人達は、未来を守ろうとしていたのである。
ただ、デンデラ野を歩いて見ると、栗が実りつつあり、キノコも生えている。また川に下れば、様々な魚や沢蟹がいて、農作物は食べなくとも、自然の恵みから命を頂き、自らの命を繋ぐ事は出来たのだと想像する。例えば
「遠野物語3」において、佐々木嘉兵衛に鉄砲で撃たれた美しい女もまた、山で暮らしていたのだ。
遠野の人々は、春は山菜、秋はキノコ採りに興じる様に、春や秋は、食料に困らなかった。問題は、夏と冬をどう過ごすかであったろう。その為に、保存食が開発され、どうにか過ごしてきた筈である。また、今程に寿命が長くない時代でもあった為、年老いた人々は若者達と違い、然程の食料を必要としなかったせいもあったろう。僅かな山の恵みや川の恵みで、どうにか生きながらえた事であったろう。実際には、更なる昔にはデンデラ野には縄文人が住み、似た様な暮らしをしていた歴史がある。現代の遠野と違い、山や川の恵みが多かった時代の事である。
確かに「姥捨て伝説」の一つとして、このデンデラ野を捉える事はできよう。しかし、デンデラ野から人骨が見つかったという話を聞いた事が無い。恐らくデンデラ野で死んでいった老人達は、家族の手によって引取られ、自らの土地に埋葬されたのだろう。今でも山口部落へ行くと、畑の中にポツネンと風化した墓石らしきがいくつも建っている。
デンデラ野の奥からは、間に山口川を挟んで、山口部落を望む事が出来る。まるで生きながらにして、あの世であるデンデラ野と、60歳になるまで住んでいたこの世である山口部落を、三途の川に見立てられた山口川を挟んで、その情景をどう見た事だろうか。しかし死してやっと、あの世から帰還できた喜びは、本人だけでなく家族もそうであったろう。デンデラ野から死体となった帰ってきた老人を手厚く葬る事は、子供や孫達の未来を守ってくれた老人達に対する感謝でもあった筈だ。
そして、ついでに読んで欲しい
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