土潤いて溽し暑し
(むわっと熱気がまとわりつく蒸し暑い頃)
日本の七十二侯の「大暑」を上記の様に説明される。つまり、暑い夏というのは、その前の梅雨という大地の恵みの雨の期間があるから、暑くなるという意にもなる。最近の梅雨の時期は空梅雨が多く、去年などはいつ川が涸れるのか?と心配した程だった。梅雨時期は鬱陶しいというイメージが優先するが、梅雨があるからこそ大地が潤い、暑い夏を体感できる事を大暑は語っている。
遠野は盆地であり、四方を取り囲む山々が全て水源を有するから水の心配は無いと云われるのも、こういう長い梅雨によって山を取り込み含む為でもある。一時の豪雨は、山はよく水を含んでくれない。例えば東京に頻繁にゲリラ豪雨が降っている情報が飛び交っても、実際は水不足に陥っているのがその為だ。
鍋倉山の杉の木を伐採して、広葉樹を植えようとしているらしい。保水力の無い杉の木は、土砂崩れの可能性も高い為である。大正時代の遠野の猿ヶ石川の写真を見ると、驚くほどの大河であった。江戸時代には対岸に行く為の渡し船があった程の水量があった。その猿ヶ石川の水量が減ったのも、やはり戦後に杉の植林が全体に増えた為だった。
早池峯山の麓の又一の滝など、昭和時代と比べれば、かなり水量が減っている。営林署の人に聞くと、やはり杉を多く植林した影響からだという。また東禅寺跡地の近くにある伝説の開慶水も今では辛うじて水がある程度だが、水流が無い為に汚い水溜りの様になっている。遠野に、水に関する伝説や、竜神の伝承があるのも、遠野盆地全体が広葉樹で覆われていた為だ。小学生の遠足地でもあった物見山は桂の木の生息地であり、かっては沼が三つはあったという。自分が小学生の頃は、一つの池だけは確認している。しかしエゾカラマツと杉が植林されてから、水は枯れ、まるで不毛の山となってしまった感がある。
遠野の伝説を築いて来たのは、四方の山々に生い茂る広葉樹であり、そして梅雨のような長雨があってこそだった。だからこそ盆地特有の
「冬は底冷えがして、夏は蒸し暑い」という気候があったのだろう。大暑の夏とは、そして遠野の伝説とは、まさに大地の潤いがあってこそだった。