東北本線の古舘駅と矢巾駅の中間に蝦夷森があり、栃の木の大木があった。触ると祟りがあると云われ、汽車の窓からも手を伸ばせば届いたそうな。しかし触れた者は体調を崩し、枝を折った者は亡くなった為、事情を知らない県木の人間に切って貰ったところ、その木を伐採した人間も大病を患い、当時の国鉄に治療費を請求したという話が伝えられているが、真意のほどは定かでは無い。
「岩手民話伝説辞典」東北本線の盛岡駅と一関駅間に以前「快速アテルイ」という車両が走ったそうだ。列車の前に、アテルイの不気味な三つの目を付けて走ったところ、その目に引き込まれたのか、続けざまに三件の飛び込み自殺が発生した為、職員は恐ろしくなりその眼を外して「快速アテルイ」はお蔵入りとなったらしい。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
これは、どちらも東北本線の話になるが、共通点は蝦夷というところだろう。岩手県内に蝦夷森、もしくは蝦夷塚と呼ばれる地は多く、そこには坂上田村麻呂が蝦夷征伐で討ち取った蝦夷の屍を埋めたところという話が多い。
「遠野物語拾遺16」にも
「故伊能先生の話、石棒の立っている下を掘って、多くの人骨が出た例は小友村の蝦夷塚にもあったという。綾織村でもそういう話が二か所まであった。(抜粋)」と、人骨の話が出てくるのはやはり、蝦夷征伐と殺された蝦夷の屍が埋められたものと広く伝わっている為だろう。その蝦夷の首領がアテルイだった。そのアテルイも祟り神となったのか、関係者から聞き出した話では、まるでアテルイの怨念の成せる業のように伝えられている。ただわからないのは「快速アテルイ」の車両の前に付けられた三つの目とは、どういうものであったのか?
岩手県に神社が建立され始めたのは、坂上田村麻呂の蝦夷征伐の後であったという。それまでは、蝦夷の信仰とは、山そのものを崇拝し、そして樹木や巨石を崇拝したという、云わば自然崇拝であったという。
司東真雄「東北の古代探訪」によれば、大昔から蝦夷が神としていた山に駒形神を祀った為に、反乱は起きたと書かれている。上毛野国から上毛野氏が和銅元年(708年)に陸奥守になってから蝦夷国と関係を持つようになったが、その後に反乱がいくつか起きているという。伊治公アザ麻呂が反乱した栗駒郡駒形村、盤具公母礼の居た磐井郡駒形山、アテルイの居た胆沢郡駒形山などいくつか反乱した人物に駒形の名が見えるのは、蝦夷の信仰する山に後から駒形神を祀った為であろうとしている。これだけの共通性を持ては、確かに駒形神とはある意味、蝦夷制服の証でもある。
信仰する山を違う神で汚され、それを信仰する人々を殺されたのでは、どれほどの怨みが溜まったのであろうか?それらの歴史を打ち消す為に、鬼退治をしたという伝説を拡散させ、現代の岩手に根付いてはいるが、蝦夷森の祟りなどの伝説もまた平行に生きているのは、未だに征服された意識を後世に伝える為であったのだろう。ただし…実際にあった祟りの様な事故は、結局誰も理解できていないのが現状だ…。