青笹村の大草里というところで、毎年春になると美しい桐の花が川に流れてきた。遠くの山が紫のようだった。村人達が何人も桐の花の咲いている所へ行こうと思ったが、誰れも行けず、いくら捜してもだめだった。桐の木は古くなると木肌も葉も桐の木のようではなくなるという。村人は桐の花が流れてくるのを見て、幻の花が咲いていると言って誰も山へ行かなくなった。
「岩手民話伝説辞典」大草里は青笹の六角牛神社を少し過ぎたところで、笛吹峠の手前の地である。この地から見える山となると、六角牛山が圧迫するように迫って見える場所でもあるが、ここで言う遠い山とはどこであろうか?桐の花で思い出すのは
「遠野物語33」での白望山での不思議譚に桐の花が登場する。
「五月に萱を苅りに行くとき、遠く望めば桐の花の咲き満ちたる山あり。恰も紫の雲のたなびけるが如し。されども終に其あたりに近づくこと能はず。」この「遠野物語33」が連動しているかどうかはわからぬが、「遠野物語33」においても白望山というわけでは無く、どこか漠然と幻の山を意味している記述になっている共通点がある。
ただ桐の花が流れてくる川があるのだが、ここでは笛吹峠に水源を成す河内川の事を言うのだろうが、これは笛吹峠に沿った川でもあるので、行き着けない場所でも無い。しかし誰も辿り着けないのはやはり、幻の山から流れてくるものであり、自然のものでは無く妖しの類であろうと悟った為に、誰も行かなくなったのだろう。辿り着けないという事から「遠野物語33」の桐の花が咲き誇る遠い山と同じである。つまり極端に言えば、罠としてリアルな桐の花を川に流し、その桐の花の元を探しに出かけた者を取り込もうとする山の妖しの類と感じたのだろう。白望山を望む地域の人達が抱く幻の山の観念を、この大草里の地域の人達も抱いていたという事だろうか。