現代では、月の満ち欠けが一般常識となっているが、古代人が欠けた月を見てどう思うだろうか?例えば丸い餠を食べた様な形だと感じるかもしれない。つまり、何かが噛んで欠けたのだと想像した可能性もあるだろう。月に対し丸い餠を供えるのも、満月と餅を重複させたからだ。それでは、その餅を食べたのは誰か?
古代ローマの博物学者
ガイウス・プリニウス・セクンドゥスは「博物誌」を著している。そこに
「兎、月を望んで孕み、口中より子を吐く、故にこれを兎という」と記されている。日本の俗信にも、月を見ると妊娠するというものがある。これは満ちた月が、兎の多産さと結び付いたものに加え月の月齢は月経と結び付いているので、欠けている月がだんだんと満ちてくる姿を妊娠した女性の姿と重ねたのだろう。
この月の満ち欠けは、不老不死とも結びついている。月が欠け、新月となるのは月の死を意味し、次第に復活して満月となるのは、死んでも再び蘇るのが月であるという事。まあこれは太陽も毎日死んでは翌日には復活するので、太陽にも不老不死の伝承は存在する。
「因幡の白兎」伝説がある。ワニを橋代わりにして海を渡っている最中に、騙されたと知ったワニが兎の毛を全て剥ぎ復讐するのだが、大穴牟遲神から蒲の穂で治して貰う。
蒲(ガマ)は蝦蟇(ガマ)と同音であり、その蝦蟇にもやはり、月との結び付きがある。中国の故事から、月の満ち欠けは、蝦蟇が月を食べるために起こるのだと云うが、その故事には不老不死の話が重なる。それは蝦蟇が西王母の不老不死の薬を持って月へ逃げた事からの物語であった。それから蝦蟇には不老不死が付き纏い、人の死にも関与する。当然の事ながら瀕死の兎が蒲によって助かったというのは偶然では無いだろう。不老不死の薬を持っている蝦蟇と蒲をかけての物語が「因幡の白兎」であったのだと思う。それ故「因幡の白兎」では月である兎を食べたのは蝦蟇では無く、ワニという事だろう。
南方熊楠は
「宇治は兎路であろう。」と述べている。その宇治という名は宇治川が有名だが、何故か伊勢神宮の前に流れる川にかかる橋を宇治橋という。調べても、何故に宇治橋と呼ばれるのかは明確な答えが無いようだ。それでは琵琶湖を発祥とする宇治川と伊勢神宮の宇治橋は繋がるのだろうか?
先に記した様に月の精である兎の路が兎路であるのだが、その月の運行…つまり暦の話になるが、太陽暦が初めて導入されたのは持統天皇時代(690年~697年)になるが、庶民に広がったのはもっと後らしい。つまり持統天皇以前は太陰暦が主であった。伊勢神宮からまの太平洋からは太陽が昇るのだが、それと共に月も昇るのだ。太陽神である天照大神と意識している為、太平洋から昇る太陽に注意が向いてしまうのだが、本来は太平洋から昇った月が伊勢神宮から西へと向かう道、つまりそれを兎路と考えても良いのではなかろうか。
「八上の白兎」の伝説は兎が天照大神を導いて西へと向かい伊勢が平に差し掛かった時に、その兎は消え失せてしまう。それは太陽である天照大神が高みに差し掛かる為、その強い光で月である兎の光が打ち消されたものと考えた。その代りとして、その伊勢が平の西方に白濁した霊泉が沸いたというのも、月の兎が泉に変わって残ったものと捉えた。それは白銅鏡が月の依代である事を踏まえてのものだ。原初の鏡とは水鏡であり、水は姿見でもあった。それが白銅によって加工されたものが白銅鏡であり、月を象ったものでもある。つまり、泉も月も同じものなのである。
「八上の白兎」伝説も月と太陽の運行の物語であるなら「因幡の白兎」伝説もまた、月の運行を語っている伝説の可能性はあるだろう。その「因幡の白兎」を彷彿させる地域が、伊勢から琵琶湖にかけてではないかと考えてしまう。何故なら琵琶湖畔には渡来人であった和邇(ワニ)氏が多く住み付いだ地域だという。伊勢から始まる月の運行は兎路を通って西を目指す。宇治川を遡り、広い琵琶湖に到達すると、そこに待ち構えているのは和邇(ワニ)であった。そこを無事に通って西の彼方へと行くのが月の宿命でもある。恐らく琵琶湖畔で月である兎に噛み付いたのは和邇であろう。
カエルを狛犬とする神社がある。その名を姥宮神社といい、祭神は石凝姥命であるが、この神は鏡作神とも云われ当然、割れた鏡であろうと直す神である。つまり月である兎が鏡でもあるのならば、それを直したのが蒲であり蝦蟇を眷属とする鏡作神である石凝姥命のなら、なんとなく辻褄が合ってしまう。
その鏡で思い出すのだが、山形県の羽黒神社の前にある鏡池から発見された鏡の殆どは、平安時代頃に京都で製造されたものであるという。その鏡を運んだルートに琵琶湖が入るようだ。これは古代からこのルートを辿り蝦夷国へと進出していた道でもある。ただ何故に大量の鏡が羽黒に運ばれたのが謎であるようだが、邪馬台国の卑弥呼は鬼道に長けていたそうだが、その鬼道とは道教であったという。その道教においての鏡は重要な役目を果たす事から、卑弥呼は鏡マニアのように鏡を集めていた。つまり羽黒に大量の鏡が運ばれていたというのも、道教の影響があったのかもしれない。
ただ鏡を水に沈めるとなると、それは雄略天皇記で五十鈴川で死んだ栲幡千千媛萬媛命の傍に水に沈んだ鏡があり、虹が発生していたとある。いわゆる月虹の話が紹介されているが、それは暗に栲幡千千媛萬媛命が水神、もしくは龍である事の逸話でもある。恐らく鏡とは月でもあるが、龍神に捧げる為の神器でもあるのだろう。その月の依代である鏡の略奪が和邇氏によって行われた可能性を「因幡の白兎」として紹介された可能性はどうであろうか?まあ、かなり端折って書いた妄想、妄文、お許し下されm(_ _)m