「遠野物語拾遺11」において、弁慶が乗せたと書かれているが、それとは別に
「土渕村誌」には、天狗が乗せ、又別に弁慶が…と書かれている。天狗も弁慶も、修験者との関係が深い。そういう意味から、この続石は修験の影響が深い巨石であると考えるべきであろう。
この続石を潜り抜けると、目の前に山神の祠がある。これは意図的に配置されたものと、誰もが思うだろう。また
「土渕村誌」には、こう書かれている
「堂宇の棟札によると、徳川中期の年号が一番古い。中には赤白の椀が多く積まれており、お産の神と云う。又、蚕の神様とも云われ、繭が糸に連ねて扉に下げられてあるが、山神は産神に通じ、又、蚕神に通じたものであろうか。」と疑問を呈している。
日本の文化は語呂合わせが多く、ここでも
「山神(さんじん)」→「産神(さんじん)」→「蚕神(さんじん)」ではなかろうか?という展開をみせている。
画像は乳神様に飾られる、お乳を象ったものだが、この白と赤は、真言密教によれば精液と血を意味している。つまり男女の交わりの象徴でもある。この続石にある山神の祠に、紅白の椀が積まれていたと云う事から、やはりお産に通じる産神でもある山神に対しての祈願からのものであろう。山神の使いに狼がいるが、その狼は多産であり安産の神にも通じる。今でも安産祈願で戌の日に祈願をするのは本来、山神の使いである狼を通して山神に祈願する為でもある。そしてこの信仰も、密教と繋がる修験である山伏が伝えたものであろう。
北西に伸びる遠野街道(R396)に続石への山道が面している。その山道は、ある程度の歪みがあるものの、ほぼ真っ直ぐに登り続石に到着する。登り切って見えるのは、左に泣石があり、右に続石だ。狐石山の斜面を考えても、続石は北東を向いている事になる。
では、その北東方面に何があるかと地図上で見て見ると、石上神社となる。当初、石上山か?と思っていたが、実際は石上神社であった。綾織では、綾織三山と呼ばれるのは、桧沢山・二郷山・笠通山の三山で、石上山は別格であるという認識になっている。
ここで思い出したのは、大迫の早池峯神社である。大迫の早池峯神社は、早池峯山に向けられて建てられておらず、遠野の早池峯神社に向けられて建てられている。つまり大迫の早池峯神社に参拝するという事は、遠野の早池峯神社を経由して、北に鎮座する早池峯山を参拝する事と同じとなる。これは
内藤正敏「修験道の精神宇宙」「羽黒山・開山伝承の宇宙観」などに記されているが、羽黒修験は北を重視したという記述から、大迫の早池峯神社と遠野の早池峯神社が、その思想に基づいて構成されているのが理解できる。
そういう意味から考えると、羽黒堂である出羽神社の向きは、御神体である背後にある羽黒岩に向けて建てられているとも思いがちだが
「遠野物語拾遺10」において、とがり岩とも呼ばれる羽黒岩を重視していない。つまり、続石方面に向けて建立されたのが出羽神社である可能性があるのではなかろうか。それは先に記した様に、出羽神社と笠通山を結ぶ直線上を遮る様に狐石山があり、そのラインを分断された狐石山に施されたのが、愛宕神社であり、続石ではなかったのか?そしてそれは石上神社を経由させ、石上山に直結させる為のものであったとも考えられる。