遠野には、いくつかの坂上田村麻呂伝説がある。その一つが、この羽黒堂と羽黒岩の地となる。蝦夷征伐の際、坂上田村麻呂は笠通山に登って見たところ、羽黒岩に潜んでいた蝦夷の豪族である岩武を発見し、矢を射たという。
この羽黒岩への初めの鳥居を潜り左を見ると、二本の杉の木の間から笠通山が見える。当然、笠通山から望んでも、この羽黒岩の地が見えるだろうと行ってみた。
笠通山の頂から望む、綾織の景観はこんな感じである。しかし、余程目が良くない限り、羽黒岩の場所がよくわからない。
若干の望遠でクローズアップしてみたが、なんとなくわかる程度だ。
更にアップしてみると、羽黒岩への入り口がよくわかる。とにかく見える事は確認できる。
笠通山の頂には、三笠山の石碑と共に「出羽山」の石碑がある。三笠山の石碑は昭和の台風の後に建てられたものだから、元々は出羽山の石碑が笠通山の頂に鎮座していたという事。この綾織地区では、笠通山に登る事を「出羽通う」という事から、出羽との繋がりを強く感じる山である。実際に、出羽の伝説に、出羽の山からある僧が東に向かって笠を投げたところ、その笠が落ちて山になったのが笠通山という事である。
「遠野物語拾遺10」に簡単に記されている坂上田村麻呂の伝説だが、坂上田村麻呂が矢を射たのが笠通山であり、岩武が潜んでいたのは羽黒岩であるのは偶然ではないだろう。綾織には、羽黒修験の影響を多々感じる地である。例えば遠野の中では珍しく、百人一首を嗜む地であるのも、羽黒修験がその文化を運んだ為であるという事らしい。そうして綾織周辺を見ると、出羽の影響を感じてしまう。
その代表格が、綾織三山と云われる一つの笠通山である。笠通山の頂では、いくつもの出羽三山に関する石碑が建てられている。伝説では笠通山の中腹には阿弥陀堂があったという事である。出羽三山の中で阿弥陀を祀る山は月山となる。その月山を笠通山と重ねて想定すると、ある事が見えてくるのである…。