土淵村大字柏崎の新山という処の藪の中に泉が湧いていて、ここが小さな池になっているが、この池でも水面に人影がさせば雨が降るといわれている。
「遠野物語拾遺41」人影がさすと雨が降るのは、この前の「遠野物語拾遺40」での開慶水がそうであるが、何故に人影が泉にさすと雨が降るのであろうか?遠野での雨乞いには泉や滝壺に動物の死体や骨を捨てて、水を穢して雨を降らせる方法を取る場合がある。つまり水が穢れれば、神の怒りによって雨が降ると信じられていた。それでは影は、穢れる元であるのだろうか?
人は死んで
"あの世"へ行くと信じられていた。ある場合は、
黄泉の国であり、
根の国であり、海の彼方にあるという
ニライカナイであったり、極楽浄土の
常世であったりする。それは果てしなく遠いイメージがありながら、死とはいつも身近に存在し、いつでも行ける場所にあるものだ。
例えば、地面に穴が空いている場所は、黄泉の国と繋がっていると云われていた。だから、便槽を掘るトイレであったり、地面を掘る井戸もまた黄泉と繋がっていると信じられていた。その為、井戸やトイレには幽霊の話が多い。そしてその黄泉と繋がる穴は、山などの洞窟もまた黄泉の国と繋がっているものと信じられていた。
「古事記」において、イザナギが死んだイザナミを探しに行く描写も、洞窟内のようである。そこでイザナギはイザナミと出会い、帰って来てくれと願う。そう黄泉の国であった筈のイザナミは生きていた時と同じであったから、イザナギは恐れずに帰って来てくれと懇願した。その後にイザナギはイザナミから
「あなを視たまひそ(私を見ないで)」と言われるまま待っていたが、ついに待ちきれずに覗くと、そこにはイザナミの腐乱死体があり驚いた。つまり、イザナミの本体は腐乱死体であり、その前に出会ったイザナミの姿は幻影のようなものであったのだろう。
「あの世」と「この夜」それは鏡の世界の様に裏表の世界だとも云われる。鏡が真実を映すならば、その目の前に立っているのは仮の姿であるのだ。吸血鬼が鏡に映らないのも、実態は既に死人である為だ。つまり、黄泉の国で最初に会ったイザナミはイザナミの影であり、本体は腐乱した死人の姿である。これが現実世界では、生きている人間が本体であり、その影とは死人と同じようなものと考えざる負えない。生と死は表裏一体であると云われる事から、影の黒色は、闇を意味し、黄泉の国の闇を表すのだろう。実際に黄泉の国においてイザナミのタブーを無視してイザナギがイザナミの姿を覗こうとした時
「一つ火燭して入り見たまふ時に」と記されているのは、黄泉の国が闇に覆われて真っ暗な事を意味している。しかし最初に出会ったイザナミを見る時には火を灯さなかったのは、「この世」と「あの世」が逆転しているからであろう。つまり「この世」での影は暗く見え、「あの世」での影は明るく見えるという意味であると考える。それ故に、「この世」での影とは「あの世」における本人の死の姿であり、それは死という「黒不浄」を意味するので、泉に影がさすと雨が降るのはやはり、泉が穢された事を意味するのであろう。