この似田貝という人が近衛連隊に入営していた時、同年兵に同じ土淵村から某仁太郎という者が来ていた。仁太郎は逆立ちが得意で夜昼凝っていたが、ある年の夏、六時の起床喇叭が鳴ると起き出でさまに台木から真逆さまに堕ちて気絶したまま、午後の三時頃まで前後不覚であった。後で本人の語るには、木の上で逆立ちをしていた時、妙な調子に逆転したという記憶だけはあるが、その後のことは分らない。ただ平常暇があったら故郷に還ってみたいと考えていたので、この転倒した瞬間にも郷里に帰ろうと思って、営内を大急ぎで馳出したが、気ばかり焦って足が進まない。二歩三歩を一跳びにし、後には十歩二十歩を跳躍して疾っても、まだもどかしかったので、いっそ飛んで行こうと思い、地上五尺ばかりの高さを飛び翔って村に帰った。途中のことはよく憶えていないが、村の往来の上を飛んで行くと、ちょうど午上りだったのであろうか、自分の妻と嫂とが家の前の小川で脛を出して足を洗っているのを見掛けた。家に飛び入って常居の炉の横座に坐ると、母が長煙管で煙草を喫いつつ笑顔を作って自分を見瞻っていた。だが、せっかく帰宅してみても、大した持てなしも無い。やはり兵営に還った方がよいと思いついて、また家を飛び出し、東京の兵営に戻って、自分の班室に馳け込んだと思う時、薬剤の匂いが鼻を打って目が覚めた。見れば軍医や看護卒、あるいは同僚の者達が大勢で自分を取巻き、気がついたか、しっかりせよなどと言っているところであった。
その後一週間程するうちに病気は本復したが、気絶している間に奥州の実家まで往復したことが気にかかってならない。あるいはこれがオマクということではないかと思い、その時の様子をこまごまと書いて家に送った。するとその手紙とは行き違いに家の方からも便りが来た。その日の午頃に妻や嫂が川戸で足を洗っていると、そこへ白い服を着た仁太郎が馳け込んで横座に坐ったと思うとたちまち見えなくなった。こんなことのあるのは何か変事の起こった為ではないかと案じてよこした手紙であったという。何でも日露戦争頃の事だそうである。
「遠野物語拾遺154」この話は「遠野物語拾遺153」と連動するものであり、物語の中にやはり「白い服」を着た仁太郎が登場する。「遠野物語拾遺153」で書いたように「魄」は形に付くものであり、魂が想いを具現化したものと考えていいだろう。「白い兵隊」は戦に勝つという兵隊の想いなら、この「遠野物語拾遺154」は兵隊となった仁太郎の想いが、田舎に帰る事であったのだと思う。
古代には、魂は頭に宿ると信じられていた。それは
「頭」の語源が
「天の魂(あまのたま)」からきているからであった。神の魂が天から降って来て頭に宿る。よって人間とは、神の作りたもうものであった。その人間の頭に宿った魂は、口や鼻から、もしくは髪の毛の先端から抜け出ると信じられてきた
。「だんぶり長者」では、眠っている若者の鼻に蜻蛉が止まるのは、鼻の穴から魂が抜け出る意味を伝えていた。また北陸では、鼻の穴に蝶が止まり夢を見るので、
蝶を「夢虫」とも称していた。魂が浮遊して、肉体とは別の場所を見て来る事を夢とも現とも判別できなかったからだ。その魂の浮遊…所謂人魂の浮遊と蝶のヒラヒラと飛ぶ飛行が似ている為に、蝶が結び付いた為だ。鼻息は「鼻」から出る「息」だ。
「息」とは
「自らの心」という意味になる。心とは魂とも解釈され、神の息吹により人間が生れるとの神話がある様に
「古事記」においても、素戔嗚尊が気吹いて宗像三女神が誕生した。つまり、鼻息もそうだが息を吹く事は、魂を吹き込む事にもなる。奇しくも水難事故などで、
マウストゥーマウスで水難者の息を吹き返すのも、ある意味
"魂のやり取り"でもあるのだ。
また
「徒然草(第四十七段)」では
「くさめ、くさめ」と唱える老婆が登場する。クシャミをして死なない為の呪文が「くさめ」であるのは、クシャミをすると魂が飛びだすと信じられた為の呪文であるのは、口が魂の出入り口になっている事を示す。「
宇津保物語」にも
「口なくば、いづくよりか魂かよはむ」と書かれているように、口は魂の出入り口であったようだ。
とにかく気を抜くと、鼻の穴から、口から魂は抜け出てしまうようだ。「遠野物語拾遺154」において、台木から真っ逆さまに堕ちたと書き記されているのは、仁太郎は恐らく頭を強く打ったことを意味する。つまり魂の宿る頭を強く打てば、その拍子に鼻や口から魂が抜け出た事を意味しているのだろう。仁太郎が飛んで田舎に帰ったのは人魂が飛ぶものだと思われていた事に重なる。また妻と嫂のいる川に向かったのは、妻に逢いたいという想いとは別に、三途の川の信仰も結びついての事であったろう。
上田秋成「菊花の約」でも、友との約束を果たす為に魂で飛んで行った物語も、この「遠野物語拾遺154」と同じである。そして、和泉式部のあまりにも有名な歌がある。
もの思へば沢の蛍もわが身よりあくがれ出づる魂かとぞ見る by和泉式部この和泉式部の歌に書かれているように、
「出づる魂」とは
「もの思う」事に強く関連する。仁太郎の田舎に帰りたい、妻に逢いたいという強い思いが、頭を強く打った事によって魂が抜け出た事を意味しているのが、この「遠野物語拾遺154」であろう。