「日来降りつる雪の、今日はやみて、風などいたう吹きつれば、垂氷いみじうしたり。…銀などを葺きたるやうになるに「水晶の滝」などいはましやうにて、長く、短く、ことさらにかけわたしたると見えて…。」
大雨が降ると、まるでバケツをひっくり返した…とも表現するが、屋根を伝って軒先に落ちる雨は、まるで滝の様。その滝が凍れば確かに、まるで神秘な水晶のように見える。氷柱を水晶の滝に見立てるのはその美しさを形容しているのだが、その感覚は現代より自由で趣がある。今では綺麗だと思えば、それをカメラで撮影して伝える事が出来る。しかしカメラの無い時代は、あくまで文章表現によって、その美しさなりを伝えねばならない。現代でも、俳句や短歌を趣味とする人は、その情景なりを如何に文字で表現しようかと苦心しているのが伺える。
ドストエフスキーの小説
「悪霊」に、こういう言葉があった
。「真実をより真実らしく見せる為には、どうしてもそれに嘘を混ぜる必要がある。だから人間は常に、そうしてきたものなのだよ。」
「百聞は一見にしかず。」という言葉があるが、確かにそれは道理だ。しかし旅先の思い出の情景を、もう一度それを伝えたい人を連れて行き見せるわけには簡単にいかない。だから言葉や文字で伝えなければならない。その人が感動した情景を表現する場合、その人の眼から脳に伝わって言葉が出てくるわけだが、そこには自身でその情景を修飾しているのであろうと思う。つまり、自身にとっては真実で美しいものであったとしても、受け取る側にとっては、そうでもないものに感じる場合がある。ヘタすりゃ言われたモノが思ったほど美しいとは感じず
『もしかして嘘を言ったのか?』などと勘繰ってしまう。
過剰な修飾は嘘にもなってしまうので、氷柱を表現する言葉として
清少納言のように氷柱を
「水晶の滝」と簡潔に、そして趣のある表現が素晴らしいと思ってしまう。