遠野の不思議と名所の紹介と共に、遠野世界の探求
by dostoev
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31
カテゴリ
全体
民宿御伽屋HP
御伽屋・幻想ガイド
遠野体験記
民宿御伽屋情報
遠野三山関連神社
遠野不思議(山)
遠野不思議(伝説)
遠野不思議(伝説の地)
遠野不思議(遺跡)
遠野不思議(神仏像)
遠野不思議(石)
遠野不思議(石碑)
遠野不思議(追分の碑)
遠野不思議(史跡)
遠野不思議(樹木)
遠野不思議(桜)
遠野各地の滝
遠野の鍾乳洞
遠野不思議(自然)
遠野八景&十景
遠野不思議(オブジェ)
遠野不思議(その他)
遠野各地の河童淵
遠野各地の狐の関所
遠野各地のデンデラ野
遠野各地の水車小屋
遠野各地の不地震地帯&要石
遠野各地の賽の河原
遠野各地の乳神様
遠野不思議(淵)
遠野各地の沼の御前
遠野各地のハヤリ神
遠野の義経&弁慶伝説
遠野の坂上田村麻呂伝説
遠野の安部貞任伝説
遠野不思議(寺院)
遠野七観音
遠野各地の八幡神社
遠野各地の熊野神社
遠野各地の愛宕神社
遠野各地の稲荷神社
遠野各地の駒形神社
遠野各地の山神神社
遠野各地の不動尊
遠野各地の白龍神社
遠野各地の神社(その他)
遠野の妖怪関係
遠野怪奇場所
遠野で遭遇する生物
遠野の野鳥
遠野のわらべ唄
民俗学雑記
遠野情報(雑記帳)
観光案内(綾織偏)
観光案内(小友編)
金子氏幻想作品
「遠野物語考」1話~
「遠野物語考」10話~
「遠野物語考」20話~
「遠野物語考」30話~
「遠野物語考」40話~
「遠野物語考」50話~
「遠野物語考」60話~
「遠野物語考」70話~
「遠野物語考」80話~
「遠野物語考」90話~
「遠野物語考」100話~
「遠野物語考」110話~
「遠野物語拾遺考」1話~
「遠野物語拾遺考」10話~
「遠野物語拾遺考」20話~
「遠野物語拾遺考」30話~
「遠野物語拾遺考」40話~
「遠野物語拾遺考」50話~
「遠野物語拾遺考」60話~
「遠野物語拾遺考」70話~
「遠野物語拾遺考」80話~
「遠野物語拾遺考」90話~
「遠野物語拾遺考」100話~
「遠野物語拾遺考」110話~
「遠野物語拾遺考」120話~
「遠野物語拾遺考」130話~
「遠野物語拾遺考」140話~
「遠野物語拾遺考」150話~
「遠野物語拾遺考」160話~
「遠野物語拾遺考」170話~
「遠野物語拾遺考」180話~
「遠野物語拾遺考」190話~
「遠野物語拾遺考」200話~
「遠野物語拾遺考」210話~
「遠野物語拾遺考」220話~
「遠野物語拾遺考」230話~
「遠野物語拾遺考」240話~
「遠野物語拾遺考」250話~
「遠野物語拾遺考」260話~
「遠野物語拾遺考」270話~
「遠野物語拾遺考」280話~
「遠野物語拾遺考」290話~
「現代遠野物語」1話~
「現代遠野物語」10話~
「現代遠野物語」20話~
「現代遠野物語」30話~
「現代遠野物語」40話~
「現代遠野物語」50話~
「現代遠野物語」60話~
「現代遠野物語」70話~
「現代遠野物語」80話~
「現代遠野物語」90話~
「現代遠野物語」100話~
「現代遠野物語」110話~
「現代遠野物語」120話~
「遠野妖怪談」
「闇・遠野物語」
遠野西小学校トイレの郁子さん
遠野東小学校松川姫の怪
遠野西小学校の座敷ワラシ
遠野高校の河童の手
冥界との縁結び
感応院と子供の黒い影
遠野にあるチベットの残存
クワガタと遠野の自然
物部氏と遠野
琴畑と妙見
菊池氏考
佐々木氏考
安倍氏考
阿曽沼の野望
遠野・語源考
河童狛犬考
飛鳥田考
遠野色彩考
遠野地名考
ゴンゲンサマ考
五百羅漢考
続石考
早池峯考
七つ森考
六角牛考
羽黒への道
動物考
月の考
「トイウモノ」考
小松長者の埋蔵金
母子信仰と速佐須良比賣
水神と日の御子
来内の違和感
遠野七観音考
早瀬川と白幡神社
又兵衛の矛
閉伊氏の正体
鯰と地震
池之端
おかばみ
三女神伝説考
早池峯遥拝所
河童と瀬織津比咩
狐と瀬織津比咩
橋姫と瀬織津比咩
平将門と瀬織津比咩
狼と瀬織津比咩
お雛様と瀬織津比咩
鈴鹿権現と瀬織津比咩
妙見と瀬織津比咩
鉄の蛇
勾玉の女神
荒御魂
七瀬と八瀬
七夕と白鳥
七夕と天の川
年越しの祓の女神
瀬織津比咩(イタリア便り)
瀬織津比咩雑記
岩手県の瀬織津比咩
古典の世界
「宮木が塚」
「蛇性の淫」
「白峰」
「吉備津の釜」
「菊花の約」
「青頭巾」
「浅茅が宿」
「徒然草」
「源氏物語」
「枕草子」
わたしの怪奇体験談
よもつ文
遠野の自然(春)
遠野の自然(夏)
遠野の自然(秋)
遠野の自然(冬)
遠野の夜空
以前の記事
2024年 01月
2023年 12月
2023年 11月
2023年 10月
2023年 09月
2023年 08月
2023年 07月
2023年 06月
2023年 05月
2023年 04月
2023年 03月
2023年 02月
2023年 01月
2022年 12月
2022年 11月
2022年 10月
2022年 09月
2022年 08月
2022年 07月
2022年 06月
2022年 05月
2022年 04月
2022年 03月
2022年 01月
2021年 12月
2021年 11月
2021年 10月
2021年 08月
2021年 07月
2021年 06月
2021年 05月
2021年 04月
2021年 03月
2021年 02月
2021年 01月
2020年 12月
2020年 11月
2020年 10月
2020年 09月
2020年 08月
2020年 07月
2020年 06月
2020年 05月
2020年 04月
2020年 03月
2020年 02月
2020年 01月
2019年 12月
2019年 11月
2019年 10月
2019年 09月
2019年 08月
2019年 07月
2019年 06月
2019年 05月
2019年 04月
2019年 03月
2019年 02月
2019年 01月
2018年 11月
2018年 09月
2018年 08月
2018年 07月
2018年 06月
2018年 05月
2018年 04月
2018年 03月
2018年 02月
2018年 01月
2017年 12月
2017年 11月
2017年 10月
2017年 09月
2017年 08月
2017年 07月
2017年 06月
2017年 05月
2017年 04月
2017年 03月
2017年 01月
2016年 12月
2016年 11月
2016年 10月
2016年 09月
2016年 08月
2016年 07月
2016年 06月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 10月
2015年 09月
2015年 08月
2015年 07月
2015年 06月
2015年 05月
2015年 04月
2015年 03月
2015年 02月
2015年 01月
2014年 12月
2014年 11月
2014年 10月
2014年 09月
2014年 08月
2014年 07月
2014年 06月
2014年 05月
2014年 04月
2014年 03月
2014年 02月
2014年 01月
2013年 12月
2013年 11月
2013年 10月
2013年 09月
2013年 08月
2013年 07月
2013年 06月
2013年 05月
2013年 04月
2013年 03月
2013年 02月
2013年 01月
2012年 12月
2012年 11月
2012年 10月
2012年 09月
2012年 08月
2012年 07月
2012年 06月
2012年 05月
2012年 04月
2012年 03月
2012年 02月
2012年 01月
2011年 12月
2011年 11月
2011年 10月
2011年 09月
2011年 08月
2011年 07月
2011年 06月
2011年 05月
2011年 03月
2011年 02月
2011年 01月
2010年 12月
2010年 11月
2010年 10月
2010年 09月
2010年 08月
2010年 07月
2010年 06月
2010年 05月
2010年 04月
2010年 03月
2010年 02月
2010年 01月
2009年 12月
2009年 11月
2009年 10月
2009年 09月
2009年 08月
2009年 07月
2009年 06月
2009年 05月
2009年 04月
2009年 03月
2009年 02月
2009年 01月
2008年 12月
2008年 11月
2008年 10月
2008年 09月
2008年 08月
2008年 07月
2008年 06月
2008年 05月
2008年 04月
2008年 03月
2008年 02月
2008年 01月
2007年 12月
2007年 11月
2007年 10月
2007年 09月
2007年 08月
2007年 07月
2007年 06月
2007年 05月
2007年 04月
2007年 03月
2007年 02月
2006年 09月
2006年 08月
2006年 07月
2006年 06月
2006年 05月
2006年 04月
2006年 03月
2006年 02月
お気に入りブログ
パチンコ屋の倒産を応援す...
ゲ ジ デ ジ 通 信
絵本 宮古物語
民宿御伽屋
不思議空間「遠野」別館
ひもろぎ逍遥
jun-roadster
リティママ の日々徒然
世に倦む日日
なんでもブログ
外部リンク
最新のコメント
語源は朝鮮人由来で間違い..
by ほげぇ at 22:07
最新のトラックバック
ライフログ
検索
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧


「遠野物語拾遺51(子供と遊ぶ神)」

「遠野物語拾遺51(子供と遊ぶ神)」_f0075075_17471611.jpg
土淵村栃内の久保の観音は馬頭観音である。其像を近所の子供等が持ち出して、前阪で投げ転ばしたり、また橇にして乗ったりして遊んでいるのを、別当殿が出て行って咎めると、すぐにその晩から別当殿が病んだ。巫女に聞いて見たところが、せっかく観音様が子供等と面白く遊んでいたのを、お節介をしたのが御気に障ったというので、詫び言をしてやっと病気がよくなった。この話をした人は、村の新田鶴松という爺で、その時の子供の中の一人である。

                         「遠野物語拾遺51」

「遠野物語拾遺51(子供と遊ぶ神)」_f0075075_1749191.jpg

正直、こういう神仏と子供が遊び、それを大人が叱るのだが、その叱った大人が神仏の罰に当たり寝込むなどという話は、全国無数にある。今さらという気がしないでも無い。

この前もある集落に赴いてフィールドワークをしているところ、集落の仏像で遊んでいた子供達を別当が…と、やはり同じような話を聞いた。そしてフト気付いたのが、もしやこの話は座敷ワラシと連動しているのではないのか?という事だった。

神仏との遊びは、子供が神仏と遊んでいて、それを叱った大人が罰を受ける。座敷わらしは、子供そのものが神仏のようなもので、何かがあってその家を出ると、その住んでいる家が罰を受けたように衰退する。どちらのキーワードも、子供であるという事だ。

子供は7歳を迎えるまで神の子であるという。その為に、至れり尽くせりのサービス?を家の者から受けるのだが、その代り7歳を迎えると人間の子供として、下の子の面倒から家事や畑仕事を手伝わなくてはならなくなる。ただし子供という区切りは、元服を迎えるまではまだ子供であるという認識もある。今でいえば、義務教育までは子供であると考えても良いのかもしれない。

しかしだ、ここでの子供とは、無邪気さと純粋さでは無いかと考える。その無邪気さと純粋さとは、表裏の無いもの。例えば、大人が神仏をオモチャ代わりにして遊んでいるのを叱るのは、神仏は尊いものであるという、ある意味差別だ。

ここで大人の考え方は、神仏は大人か子供かと考えた場合、分別の付く大人に近いものだろうと勝手に思っている気がする。神仏とは、大人や子供を超越したところにいる存在であり、それは大人であるとか子供であると分け隔てるのが間違いでは無いかと思ってしまう。
「遠野物語拾遺51(子供と遊ぶ神)」_f0075075_1756474.jpg

泉鏡花が面白い事を言っている。


「僕は明らかに世に二つの大なる自然力のある事を信ずる。これを強いて
一纏めに命名すると、一を観音力、他を鬼神力とでも呼ぼうか。共に人間
はこれに対して到底不可抗力のものである。鬼神力が具体的に吾人の前に
顕現する時は、三つ目小僧ともなり、大入道ともなり、一歩脚傘の化け物
ともなる。世に所謂妖怪変化の類は、すべてこれ鬼神力の具体的現前に外
ならぬ。」



観音力とは人間が太刀打ちできない力であり、その尊い力を信じるから、大人はそれを大事にしようとする。しかし一旦それを粗末に扱い蔑むからその観音力は鬼神力となって、人々に禍をもたらすのだと信じる大人がいるのだと思う。しかし、そういう知識も無い子供にとって観音力も鬼神力も無いのではなかろうか。泉鏡花の俳句に、やはり面白いものがある。


「五月夜や尾を出しそうな石どうろ」


この俳句は、お寺や神社にある石灯籠が夜の暗さも相まって恐ろしく感じ、今にも動きそう(化けそう)に感じる情景の俳句と感じる。この感覚は自分だけでなく、誰でも感じた事のある感覚であり、それは子供の時に感じた感覚であったろうと思う。人間はいろいろな"知識"を吸収し成長し、大人になって行く。だが子供は、先程の観音力も鬼神力も感じる事の無くただ感覚の赴くままに神仏像と接しているに過ぎないのだと思う。

座敷わらしの姿を、子供は見る事が出来るという。座敷わらしが物の怪であるならば、それは泉鏡花の言うところの鬼神力であり、霊的なモノの具現化であろう。よく「見える人」という区分けがある。普通の人が見る事の出来ないモノを見る事の出来る人。

例えば、夜に輝く星々も、昼間には太陽の光に打ち消され見る事が出来ない。それを「見える。」という人は、幽霊が見えるに等しいであろう。幽霊が実在するかどうか定かでは無いが、例えば見える筈の無いプレアデス星団の七つ星をギシリア神話では七人の姉妹として表しているのは、それは誰かが見えたからであろうか?またドゴン族に伝わる星の神話もまた、普通の人には見えないものを伝えている。

それらを認識する時、神仏像が単なる像としてではなく、子供にとって、それは神仏像ではなく一緒に遊んでくれるモノであるか人であると認識したから、子供はそれで遊び、神仏像もまた、それを認識してくれた子供と楽しく遊んだのだと思ってしまう。

座敷わらしもまた、それが家に憑く存在であるから、その家をどう扱うかによって、座敷わらしの存在を感じるのだと思う。その共通点は子供であり、子供と同じ感覚を有する事だろう。

また神霊や心霊が存在せず、それを自我意識の精神と捉えれば、全体が認識する祟りというものを具現化するなら、心理学的には有り得る話だと思う。

恐らく、子供が神仏像と遊ぶのは、子供が純粋に神仏像を「遊ぶモノ」では無く「遊んでくれる者」として捉えて、無邪気に遊んでいたのではないか。それは子供が神仏像を「そう感じた。」からであり、座敷わらしもまた同じであるのだと考える。

神仏の祟りを現実的に捉えれば、それは子供の「目線」や「言葉」を通して伝える心的エネルギー(リピドー)が作用してのものだとすれば納得できるものであるし、座敷わらしのそれも、屋敷に対して抱く心的エネルギーが内面へと向けば、座敷わらしは去っていき、家が衰退を始めるのだと思う。

「遠野物語拾遺51」での話は、何故に子供が神仏像と楽しく遊んでいるかが本当の意味であり、それを理解出来ぬ子供の心を失った大人が、それを悟る為の話では無かったのか。また神仏像とは、それだけ人間の知識や経験を超越した存在で、それを感じる事のできるのは余分な知識では無く「無邪気」ともいえる子供の心であり、それが大人であれば邪念を振り払った禅でいうところの「無」の境地ではなかろうか。
by dostoev | 2012-09-14 18:08 | 「遠野物語拾遺考」50話~
<< 遠野祭りの日(2012.09.15) 今から、何かあるらしい…。 >>