土淵村栃内の久保の観音は馬頭観音である。其像を近所の子供等が持ち出して、前阪で投げ転ばしたり、また橇にして乗ったりして遊んでいるのを、別当殿が出て行って咎めると、すぐにその晩から別当殿が病んだ。巫女に聞いて見たところが、せっかく観音様が子供等と面白く遊んでいたのを、お節介をしたのが御気に障ったというので、詫び言をしてやっと病気がよくなった。この話をした人は、村の新田鶴松という爺で、その時の子供の中の一人である。
「遠野物語拾遺51」正直、こういう神仏と子供が遊び、それを大人が叱るのだが、その叱った大人が神仏の罰に当たり寝込むなどという話は、全国無数にある。今さらという気がしないでも無い。
この前もある集落に赴いてフィールドワークをしているところ、集落の仏像で遊んでいた子供達を別当が…と、やはり同じような話を聞いた。そしてフト気付いたのが、もしやこの話は座敷ワラシと連動しているのではないのか?という事だった。
神仏との遊びは、子供が神仏と遊んでいて、それを叱った大人が罰を受ける。座敷わらしは、子供そのものが神仏のようなもので、何かがあってその家を出ると、その住んでいる家が罰を受けたように衰退する。どちらのキーワードも、子供であるという事だ。
子供は7歳を迎えるまで神の子であるという。その為に、至れり尽くせりのサービス?を家の者から受けるのだが、その代り7歳を迎えると人間の子供として、下の子の面倒から家事や畑仕事を手伝わなくてはならなくなる。ただし子供という区切りは、元服を迎えるまではまだ子供であるという認識もある。今でいえば、義務教育までは子供であると考えても良いのかもしれない。
しかしだ、ここでの子供とは、無邪気さと純粋さでは無いかと考える。その無邪気さと純粋さとは、表裏の無いもの。例えば、大人が神仏をオモチャ代わりにして遊んでいるのを叱るのは、神仏は尊いものであるという、ある意味差別だ。
ここで大人の考え方は、神仏は大人か子供かと考えた場合、分別の付く大人に近いものだろうと勝手に思っている気がする。神仏とは、大人や子供を超越したところにいる存在であり、それは大人であるとか子供であると分け隔てるのが間違いでは無いかと思ってしまう。
泉鏡花が面白い事を言っている。
「僕は明らかに世に二つの大なる自然力のある事を信ずる。これを強いて
一纏めに命名すると、一を観音力、他を鬼神力とでも呼ぼうか。共に人間
はこれに対して到底不可抗力のものである。鬼神力が具体的に吾人の前に
顕現する時は、三つ目小僧ともなり、大入道ともなり、一歩脚傘の化け物
ともなる。世に所謂妖怪変化の類は、すべてこれ鬼神力の具体的現前に外
ならぬ。」 観音力とは人間が太刀打ちできない力であり、その尊い力を信じるから、大人はそれを大事にしようとする。しかし一旦それを粗末に扱い蔑むからその観音力は鬼神力となって、人々に禍をもたらすのだと信じる大人がいるのだと思う。しかし、そういう知識も無い子供にとって観音力も鬼神力も無いのではなかろうか。泉鏡花の俳句に、やはり面白いものがある。
「五月夜や尾を出しそうな石どうろ」 この俳句は、お寺や神社にある石灯籠が夜の暗さも相まって恐ろしく感じ、今にも動きそう(化けそう)に感じる情景の俳句と感じる。この感覚は自分だけでなく、誰でも感じた事のある感覚であり、それは子供の時に感じた感覚であったろうと思う。人間はいろいろな"知識"を吸収し成長し、大人になって行く。だが子供は、先程の観音力も鬼神力も感じる事の無くただ感覚の赴くままに神仏像と接しているに過ぎないのだと思う。
座敷わらしの姿を、子供は見る事が出来るという。座敷わらしが物の怪であるならば、それは泉鏡花の言うところの鬼神力であり、霊的なモノの具現化であろう。よく「見える人」という区分けがある。普通の人が見る事の出来ないモノを見る事の出来る人。
例えば、夜に輝く星々も、昼間には太陽の光に打ち消され見る事が出来ない。それを「見える。」という人は、幽霊が見えるに等しいであろう。幽霊が実在するかどうか定かでは無いが、例えば見える筈の無いプレアデス星団の七つ星をギシリア神話では七人の姉妹として表しているのは、それは誰かが見えたからであろうか?またドゴン族に伝わる星の神話もまた、普通の人には見えないものを伝えている。
それらを認識する時、神仏像が単なる像としてではなく、子供にとって、それは神仏像ではなく一緒に遊んでくれるモノであるか人であると認識したから、子供はそれで遊び、神仏像もまた、それを認識してくれた子供と楽しく遊んだのだと思ってしまう。
座敷わらしもまた、それが家に憑く存在であるから、その家をどう扱うかによって、座敷わらしの存在を感じるのだと思う。その共通点は子供であり、子供と同じ感覚を有する事だろう。
また神霊や心霊が存在せず、それを自我意識の精神と捉えれば、全体が認識する祟りというものを具現化するなら、心理学的には有り得る話だと思う。
恐らく、子供が神仏像と遊ぶのは、子供が純粋に神仏像を「遊ぶモノ」では無く「遊んでくれる者」として捉えて、無邪気に遊んでいたのではないか。それは子供が神仏像を「そう感じた。」からであり、座敷わらしもまた同じであるのだと考える。
神仏の祟りを現実的に捉えれば、それは子供の「目線」や「言葉」を通して伝える心的エネルギー(リピドー)が作用してのものだとすれば納得できるものであるし、座敷わらしのそれも、屋敷に対して抱く心的エネルギーが内面へと向けば、座敷わらしは去っていき、家が衰退を始めるのだと思う。
「遠野物語拾遺51」での話は、何故に子供が神仏像と楽しく遊んでいるかが本当の意味であり、それを理解出来ぬ子供の心を失った大人が、それを悟る為の話では無かったのか。また神仏像とは、それだけ人間の知識や経験を超越した存在で、それを感じる事のできるのは余分な知識では無く「無邪気」ともいえる子供の心であり、それが大人であれば邪念を振り払った禅でいうところの「無」の境地ではなかろうか。