遠野の裏町に、こうあん様という医者があって、美しい一人の娘を
持っていた。その娘はある日の夕方、家の軒に出て表通りを眺めて
いたが、そのまま神隠しになってついに行方が知れなかった。
それから数年後のことである。この家の勝手の流し前から、一尾の
鮭が跳ね込んだことがあった。家ではこの魚を神隠しの娘の化身で
あろうといって、それ以来一切鮭は食わぬことにしている。今から
七十年前の出来事であった。
「遠野物語拾遺140」
以前、この程洞神社の別当である宮氏から生前に聞いた話だが、阿曽沼の末裔が、この程洞神社の奥にひっそりと住んでいたと聞いた事がある。それを調べると、一人の人物が浮き上がった。その名を
四戸道雲(道義)と云う医者を生業とする人物であった。
道雲は、阿曽沼が関ヶ原の決戦に参加している隙に、遠野城は南部氏に占領されてしまった事件があった。その後南部氏の統治する遠野へと道雲は自分は医者だからという事で、お構いなしに城下に住んで医療活動を続けている最中に悪い噂がたった
。「道雲は阿曽沼の一族だから、いずれ南部怨みををはらそうとするだろうから、南部の者達が道雲から診療を受ける事は危険だ。」というものであったようだ。
敵味方関係無く、医は仁術であると思っていた道雲に、この南部の噂は頭にきた様で、城下の住まいを引き払って、程洞神社の奥に居を構えたという。しかし道雲は名医であったから、多くの百姓や町人が道雲を慕って、この程洞まで診て貰いにきていたという。
城下を引き払った道雲は一緒に崇敬していた薬師如来も移転させたので、その薬師の参詣人も多くて道雲は気を良くしていたという。しかし、現在の程洞には薬師如来を祀っていた形跡は無い。
道雲の薬師如来への信仰は厚かったらしく、それは当時の医療では全てを治す事は出来ない。そこにもう一つ、神仏の加護が必要であるとし、阿曽沼氏の信仰していた薬師如来を信仰するよう、病人にも勧めたという。現在、横田城跡に薬師堂なるものがあるが、恐らくその薬師がこの程洞でも祀られていたのだろう。
この程洞は、明治時代の神仏分離の際、稲荷神社として通したそうである。ただし他の稲荷神社の農業の加護とは違い、人間の病にも加護を賜るという御利益があり、それも特に女性の病に対しての加護があると評判であったようだ。
道雲の子に景雲という息子がおり、やはり父・道雲同様医術に長けていたようだった。
年老いた道雲の死は安楽であったようで、イビキをかきながら寝て、そのまま目を覚まさなかったという。その道雲の死後、屋敷の敷地内に阿曽沼守神の側に道雲のお墓を建てたという。そしてその道雲が亡くなった8年後、今度は息子の景雲が四十代で亡くなったという。程洞には薬師如来も含め、道雲と景雲の御霊屋を建てて、三つの社が並んだという。人々は、この三つの社に願掛けすけば、どんな病も治ると信じ、参拝人が絶えなかったそうである。
程洞稲荷の別当である宮家の菩提寺は、新町の常福寺である。宮家自体の墓所は平成になって建てられたものであるから、もしかしてそれ以前に道雲と景雲の墓も、この常福寺に移転されたのであろうか?今の程洞には、その墓らしきは見当たらない。
実は景雲にも息子がおり、その名を弘雲といった。祖父である道雲が死に、その後に父である景雲が死んだ後、若くして程洞で、そのあとを継いだという。若いが祖父や父以上の名医であると讃えられた弘雲の名声は大変なものであったらしく、他領の殿様からもわざわざ迎えられ診療した程であったようだ。益々診て貰いに来る人々が増えると共に、程洞は便が悪いと不平が出たのもあり、また弘雲家族からも苦情が出た為に程洞から離れ、城下に移り住んだという。ただし南部城下である為、阿曽沼の家臣であった四戸の姓を捨て、宮氏の跡を継ぎ、宮弘雲と名乗ったという。恐らく「遠野物語拾遺140」に登場する
"こうあん様"とは、
宮弘雲(四戸弘雲)であるのだろう。
弘雲の死後、その子供の太郎吉と治郎吉は父の跡を継いだが不肖の子で、医術も極めず酒や色に耽ってしまい信用を失い、また放蕩の限りを尽くしたので、代々からのせっかくの蓄えを食いつぶしてしまい、弘雲の時代に移り住んだ新町の家を出、河原で過ごす事になさったという。
実は、父である弘雲の死も、鮭漁見物に行った際に勧められた鮭汁を食べたからだとか、その子供達が没落したのも鮭の祟りであると噂されたようである。ただし「遠野物語拾遺140」においては、娘が神隠しになった為、鮭を食わぬようになったとされているが、真意は定かでは無い。
実は、この程洞稲荷は明治の神仏分離の時、神仏混合の疑いをかけられ、総代達協議の上、阿曽沼守神薬師如来や道雲や景雲の墓や医療護神の本尊を廃棄し、程洞稲荷神社として国から承認されたという。恐らく四戸代々の墓は、現在常福寺において無縁仏として、どこかにあるのかもしれない。ただし四戸家で祀っていた医療護神の本尊の行方はわからない。その本尊を総代の誰かに委託したのか、はたまた本当に廃棄されたのか。現在の宮家では、程洞からの水を敷地内まで引き守っている事から、医療護神とは水に関するものであったのかと思う。それは、この敷地内にコンセイサマが不動の剣と一緒に祀られる事から、そう想像するしかないのだ。
ところで程洞だが、この正確な名称の由来も定かでは無い。「ホト」もしくは「ホド」は女性器を意味し、また「洞(ホラ)」もまた、同じ意味を持つ。この程洞神社自体が、医者であった四戸一族の医療行為によって特に、女性の病に対して特別な御利益があった事から程洞と名付けられたのかもしれない。