今月の17日(宵宮祭り)、18日(例祭)は早池峰神社の例大祭が行われる。ところで
伊能嘉矩「遠野くさぐさ」には、早池峰神社の例祭の紹介がある。
「又一の滝より発し、祓川、今の滝川に到り、河水を打ちかけて之を漕ぐ風なるが、此の渡御の際来り会せる壮男誰れ彼れの別なく互に神輿を舁かんと争ひ、果ては相打ち相攫みて奪ひ合ひ、突威喚叫さながら修羅の巷の如く、屢々神輿を破壊して片々と為すことあり。而して之を以て神霊の歓喜し給ふところとし…。(抜粋)」とある。とにかく、これを読めば早池峰神社の例祭の歴史では、頻繁に神輿が壊れてきたという事だろう。画像は、早池峰神社の社に保管されている古神輿だが、これはつまり壊されないで無事に残った貴重な神輿なのかもしれない。
ところで
「神霊の歓喜し給ふところとし…。」とあるのだが、早池峰神社に祀られる神は瀬織津比咩と云い、女神である。男共は、その女神が乗った神輿を奪い合うのだが、まるで今の世でも起こり得る、一人の女を奪い合う醜さを体現しているのだ。それを見て歓喜する女神の性格とは、どのようなものだろう?
地母神であった筈の伊邪那美が黄泉津大神となって
「お前の国の人間を1日1000人殺してやる」と叫んだのは、女の二面性故か。それはどうしても、ローマ神話に登場する優しい月の女神であるダイアナと、その対である復讐の女神であるヘカテとダブってしまうのだ。また以前観た、
ブライアン・デ・パルマ監督の
「フューリー」は、やはりローマ神話に登場する復讐の女神を体現したストーリーであった。また同じブライアン・デ・パルマ監督の映画
「キャリー」なども、追い詰められた女性が突如爆発するようにサイコキネシスで復讐を始めるのも、抑圧された感情によるものであったのだろう。神社の年に一度のハレの日である祭りは、そこに閉じ込められた神の抑圧されたエネルギーの発散の場でもある。抑圧され、鬱屈した神の魂が、自らを求め争う男共を見て歓喜するのだろうか。
つまり女神である属性を考え合わせれば、黄泉津大神となって人間の死を望む伊邪那美の根底に対し、瀬織津比咩の男共を弄び狂わせ争わせるという事は、争って死に至る者、もしくは悲観して命を絶つ者が発生する…の、どちらかとなる可能性がある為、そこに伊邪那美と同じ
"死を望む女神"という共通性を見いだせる。
日本において、男に尽くしてきた美しい女が、その男に裏切られ、死んで復讐の悍ましい幽霊となるような従来の怪談話が多く、
上田秋成「雨月物語」における
「吉備津の釜」の磯良のラストの復讐は、その抑圧された感情を一気に爆発させたような結末だった。ただ日本の怪談話の元は、伊邪那美がモデルではなかったのだろうか?生と死の両極端なものを体現したのは、日本神話において伊邪那美しかいないだろう。
とにかく世界にも、その女性の美しさと恐ろしさを伝える話は多くある。現在、調査中だが、その黄泉津大神である伊邪那美と瀬織津比咩が黄泉の国で繋がる節がある。荒ぶる女神は男を弄び、争いを引き起こす性質を持っているのかもしれない。実は、それだけ男を狂わせる美貌と言葉を持っているからなのだろうが。そういう意味から考えると以前、瀬織津比咩はソウツ姫として三途の川のショウズカ婆と結びつける説もあったが、醜い老いさらばえた婆様と、男を狂わし弄ぶ美女である女神の姿とは結びつかない。あくまでも結びつけるならば、伊邪那美であろう。男神であるイザナギの「ナギ」が「凪」ならば、そこは波風の建たない穏やかな海であるのに対し、イザナミの「ナミ」は「波」であり、穏やかな海を荒らす存在である。この名前からも、伊邪那美が黄泉の国へ行き、黄泉津大神となったのは頷ける話であった。
とにかく今度、早池峰神社の例祭があるが、瀬織津比咩の霊気に感応し狂わされないようにしなければ(^^;