綾織村山口の続石は、この頃学者のいうドルメンというものによく似ている。二つ並んだ六尺ばかりの台石の上に、幅が一間半、長さ五間もある大石が横に乗せられ、その下を鳥居の様に人が通り抜けて行くことが出来る。武蔵坊弁慶の作ったものであるという。
昔弁慶がこの仕事をする為に、一旦この笠石を持って来て、今の泣石という別の大岩の上に乗せた。そうするとその泣石が、おれは位の高い石であるのに、一生永代他の大石の下になるのは残念だといって、一夜中泣き明かした。弁慶はそんなら他の石を台にしようと、再びその石に足を掛けて持ち運んで、今の台石の上に置いた。それ故に続石の笠石には、弁慶の足形の窪みがある。泣石という名もその時から附いた。今でも涙のように雫を垂らして、続石の脇に立っている。
「遠野物語拾遺11」この「遠野物語拾遺11」を読んで、誰しもが続石に注目するが、ここでの主役は実は泣石であると思うのだが…。
ところで遠野市上郷町に泣石という地名があり、そこには画像の様に上から清水が年中流れ、まるで泣いているようだからと。しかし「遠野物語拾遺11」での泣石は、それとは違い悔しくて泣いたという。泣く筈の無いものが泣くというのは例えば有名な、涙を流すマリア像など、神霊系というか心霊系に近い。しかし、今の所石が泣くという昔話や俗信を発見できないでいる。
泣石は「位の高い石」だと記されている。位となれば、同じく「遠野物語拾遺10」において、樹木は石よりも位が高いとなっている。位というものは人間が付けるものであろうから、恐らく石や樹木に位を付けたのは人間だとは思う。例えば少し違うのだが、遠野の山崎のコンセイサマという自然石は男根の形をしている。それが一旦消えうせた為に、違うコンセイサマを祀っていたのだが、昭和47年に以前に祀っていたコンセイサマが発見されたので、元に戻したという。元に戻した理由は、元々御神体でもあったのだが、大きかったというのが、もう一つの理由となる。その大きさも、一つの位であろう。
日本には、巨石信仰があったと云われるのは、圧倒的な大きさや形が、日本人の心に訴えたからだ。また不動岩と呼ばれるものの殆どは山伏の介入があり、不動明王の信仰が入ったものの他に、大きいというのも、一つの理由だった。人間の力では動かす事の出来ないもの。つまり大きい石は、人間の力でどうする事の出来ないものであった。それ故に「不動」の尊称を与えられた巨石が全国に数多く存在する。とにかく、大きい石が尊ばれた歴史があったようだ。となれば大きい=位が高いと考えても良いのだろう。
続石の笠岩の下に、二つの石がある。ここで感じるのは、もしも泣石の上に笠岩があったら…と考える。現在の続石は、鳥居の様に下を潜れるようになっているが、これが泣石の上に笠岩があった場合、鳥居の様…ではなく、その形はコンセイサマとなるだろう。この物語は弁慶伝説が伴っているが、実際は続石制作話となる。弁慶は、日本の各地に巨石伝説を伝える役目を担っている存在の様。巨石にまつわる話には、弁慶が付き纏っているのが多いのは、弁慶の物凄さを伝えようとした山伏の存在があったのだろうと予測される。とにかく「遠野物語拾遺11」から、弁慶の名前を外して考えると、初めにコンセイサマを作ろうとしたが結局諦めて、鳥居型の続石にしてしまったとも取れる話だ。どちらも信仰に関係する形態である。
コンセイサマは、五穀豊穣を願う形であるとされる。母なる大地、もしくは全ての生命が誕生するという山の神である母神に対しての男根は、その母の巨大さに合わせて当然のごとく大きいモノが良い筈と考えるのが普通であろう。この続石の傍に山神の祠がある事から、続石と山神の相互関係はうかがえるのだ。
泣石の上に笠岩を載せようとするのは、コンセイサマを作ろうとした行為であった思う。それが果たせなかった為に、今の形態になってしまった理由を物語として作って語った可能性は否定できないかもしれない。
しかし昨日、久々に続石まで行って見てきた。そしてよくよく見ると。実は続石ってのは、初めから一つの石の上に乗せて作られた石じゃなかったのだろうか?
続石を見た方は知っての通り、笠岩の下には二つの石があるのだが、実際は二つの石のうちの一つだけに乗せられている。なんとなく脳内に残っていた勝手なイメージは下の二つの石は小さく、それが一つの石の上に絶妙のバランスで乗っているのが続石というものだったけれど、上の画像をよくよく見てもらえばわかるが、一つの石の丁度中央に笠岩が乗せられており、初めからこの一つの石の上に乗せようとした意思を感じる。隣のもう一つの石は、たまたま傍にあった余分な石では無かっただろうか?今回、マジマジと見て来て、それを感じてしまった。
となれば「遠野物語拾遺11」の話は、高くて大きな泣石という石の上に、笠岩を乗せようとしたが無理だった為、位(レベル)を低くして、泣石の半分程度の石の上に笠岩を乗せた話だと思う。そして続石は、下を潜れる鳥居形というわけではなく、初めからコンセイサマ形の石として作られたものでf無かったろうか?
当然「位が高い」という意味は、現在の笠岩が乗せられている石よりも、大きいという意味で「位が高い」という事では無かったのか?「遠野物語拾遺11」の記述に「二つ並んだ六尺ばかりの台石の上に…。」と書かれている事から、初めから2つの台石として見ていたが、実はそれは違ったのだと感じてしまったのだった…。