源氏物語の解釈本である
「河海抄」には
「七瀬所々」として
「難波 量太河股(摂津) 大島 橘小嶋(山城) 佐久奈谷 辛崎」とある。先の記事である「遠野七観音考」において、近江の佐久奈谷と辛崎は紹介したが、大島と橘小嶋は山城国…つまり現在の京都の宇治川沿いにあるようだ。そしてもう一つ挙げなければならないのは、橋姫神社だろう。
橋姫神社の社伝には、孝徳天皇御宇大化二年(646年)に元興寺の僧である道登が宇治橋を架けるにあたり、その鎮護を祈る為に、宇治川の上流である桜谷に鎮座する佐久奈度神社に祀られる瀬織津比咩を勧請し、橋上に祭祀したとされている。ただ佐久奈度神社の創始は天智天皇8年(669年) である為、この社伝を疑問視する声が多いようだ。
しかしだ、天智天皇以前に桜谷には既に瀬織津比咩が祭祀されており、後に社殿を建立し佐久奈度神社としたものを、わかり易く後で社伝に付け加えたとしたら、何ら問題は無いだろう。調べてみると
「興福寺官務諜疏」には、天智天皇の代に右大臣中臣金連が
"大石佐久那太理神"を勧請したとある。
桜谷の古名は佐久奈谷であって、「タニ」を「タリ」とも云う事から佐久那太理は佐久奈谷とも解釈は成り立つ。また佐久那太理の「太理」は「垂り」でもあり、滝の落ちる様、もしくは水がなだれ落ちる様を意味する。つまり佐久奈度神社が創建される以前から佐久奈谷には、瀬織津比咩が祭祀されていた歴史があるのだろう。それ故に「大石佐久那太理神」という地名的な名前として瀬織津比咩が勧請されたのだと思う。また「大石」の意味は忌伊勢(伊勢詣での祓所の意)「おいせ」が「おおいし」に訛ったものとされているよう。つまりこの佐久奈谷は伊勢まで繋がっていると考えれば、宇治という地名が気になる。
宇治の語源は「内(うち)」とされているのが一般的だが、南方熊楠は宇治は兎路であり、意味はそのまま解釈すべきだと述べている。つまり兎の路が宇治であり、兎は裏伊勢とも呼ばれる熊野では巫女を意味する事から、神の依代でもある巫女が佐久奈谷で神憑きとなり、伊勢へと向かうとも解釈できる。その巫女を称し神名を与えるなら玉依姫であり、その玉依姫が佐久那太理に坐す瀬織津比咩の霊を依り憑かせ伊勢に向かうとも解釈できるのだ。その伊勢神宮の前にかかる橋を宇治橋というのも意味深ではある。ただ普通に考えれば神武天皇を案内したウヅヒコの名が宇治の地名であるそうだが、その辺は今後の課題としよう。
ちなみに奥州市の新山神社の宮司の先祖は、京都の宇治から瀬織津比咩を羽黒に運んだ後、現在の新山神社に祀ったという。羽黒権現とは玉依姫であり、別名瀬織津比咩であると述べている。となれば、兎路(うじ)が巫女の路であると解釈し、それが玉依姫であるとも重なってくるのだ。まあこの辺の検証も課題ではあるが…。
ところで
高橋亨「源氏物語の対位法」において、「大祓祝詞」の中に展開される世界と、桜谷から始まる宇治水系は対比される場所であると述べている。
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高天原に神留り坐す 皇親神漏岐 神漏美の命以ちて八百萬の神等を神集へに集へ賜ひ 神議りに議り賜ひて 我が皇御孫命は豊葦原 水穂の國を安國と平けく知ろし食せと事依さし奉りき 此く依さし奉りし國中に荒振る神等をば神問はしに問し賜ひ神掃ひに掃ひ賜ひて 語問ひし磐根樹根立 草の片葉をも語止めて 天の磐座放ち 天の八重雲を伊頭の千別きに千別きて天降し依さし奉りき 此く依さし奉りし四方の國中と 大倭日高見の國を安國と定め奉りて下つ磐根に宮柱太敷き立て 高天原に千木高知りて 皇御孫命の瑞の御殿仕へ奉りて 天の御蔭日の御蔭と隠り坐して 安國と平けく知ろし食さむ國中に成り出でむ 天の益人等が過ち犯しけむ種々の罪事は 天つ罪國つ罪許々太久の罪出でむ此く出でば 天つ宮事以ちて 天つ金木を本打切りち末打ち斷ちて千座の置座に置足らはして天つ菅曾を本苅り斷ち末苅り切り 八針に取辟て天津祝詞の太祝詞事を宣れ 此く宣らば天つ神は天の磐門を押披きて 天の八重雲を伊頭の千別きに千別きて聞こし食む 國つ神は高山の末短山の末に上り坐して 高山の伊穂理 短山の伊穂理を掻き別けて聞こし食さむ此く聞こし食してば 罪と云ふ罪は在らじと 科戸の風の天の八重雲を吹き放つ事の如く 朝の御霧夕の御霧を朝風夕風の吹き払う事の如く 大津邊に居る大船を舳解放ち艫解放ちて大海原に押し放つ事の如く 彼方の繁木が本を焼鎌の利鎌以ちて打掃ふ事の如く遺る罪は在らじと祓へ給ひ淸め給ふ事を 高山の末 短山の末より佐久那太理に落ち多岐つ 速川の瀬に坐す瀬織津比賣と云ふ神 大海原に持ち出なむ 此く持ち出で往なば 荒潮の潮の八百道の八潮道の潮の八百曾に座す速開都比賣と云ふ神 持可可呑みてむ此く可可呑てば 氣吹戸に坐す氣吹戸主と云ふ神 根の國底の國に氣吹放ちてむ 此く氣吹放ちてば 根の國 底の國に坐す速佐須良比賣と云ふ神 持ち佐須良ひ失ひてむ 此く佐須良ひ失ひてば 罪と云ふ罪は在らじと 祓へ給ひ淸め給ふ事を 天津神 國津神 八百萬神等共に 聞こし食せと白す
「大祓祝詞」
「大祓祝詞」の中に出てくる大津とは近江の大津であり、佐久那太理は佐久奈谷であって佐久奈度神社の鎮座する地であり、科戸は伊吹山の麓にあり、彼方は山城の地名で湖水の下り来る川添にあるなどと説明されてはいるが、実情は「大祓祝詞」が実際の地名によって書かれたとは到底考えられない後世の附会であろうと述べている。しかし「大祓祝詞」を作ったのは、天智天皇の右大臣であり、佐久奈度神社を建立した中臣金連であるという。となれば天智天皇の時代に作られた「大祓祝詞」は、佐久奈谷から宇治水系への流れで伊勢まで行きつく行程が初めから意図された可能性はあるだろう。
そうして考えてみると、天智天皇が何故に、佐久奈谷に佐久奈度神社を建立したかであると思う。大津という地は白村江の戦いに敗れた後、多くの渡来人が移り住んだ地でもあり、日本海側に近く水運の拠点でもあって重要な地であるのは政治的にも理解できる。しかしそれ以外にも行幸を重ねる天智天皇と額田王に加え、天智天皇系の天皇(桓武天皇など)が近江国に行幸するのは、水の霊力を得ようとしているのではないかと考える。それ故に天智天皇は「大祓祝詞」の世界を、初めから佐久奈谷からの宇治水系に具現化したのではないかと考える。