祓戸神として瀬織津比咩を祀る佐久奈度神社は、天智天皇8年(669年)に勅願により、中臣金が祓戸の神を祀ったのが創始であるとされる。以来、「七瀬の祓い所」の一つとして重んぜられたという。
また唐崎という、やはり七瀬の祓い所がある。
天智天皇挽歌にも歌われ
、「源氏物語」にも唐崎の歌が出るなど、七瀬の祓い所としては、筆頭になるほどの唐崎は重要な場所であったようだ。その理由は、大津京の外港であるとともに、大宮人の船遊びの船が発着する特別な場所であり、また渡来系氏族の居住地があった事もあるようだ。
その唐崎には唐崎神社があるのだが、大津京が遷都される以前は大川神社として鎮座しており、天智天皇はここで穢祓をした事から、本来は瀬織津比咩を祀っていたのではないかという事のようだ。
また、七瀬の祓い所の一つに佐久奈谷があるが、佐久奈谷は桜谷の古名であり
「八雲御抄」によれば
「さくらだに、是は祓の祝詞に冥土を伝ふ」とある。つまり「大祓祝詞」の神が鎮座し、黄泉の国へといざなう地の意味でもある。
ところで、もう一度「七」という数字を考えてみようと思う。例えば
八乙女は巫女の総称と思っていたが、調べてみると、天智天皇は大津において
七乙女に舞を舞わせていた。また遡ると
「古事記(神武記)」に
神の巫女を
七媛女と記されている。つまり八乙女よりも、七媛女の方が古い巫女の総称であったようだ。
また
「神功記」にも七枝刀や七子鏡、または
「万葉集」にも七種の宝とあるように、不定な多数の意味の他に、七は神聖なものを意味するのだとも理解できる。
他にも
「鎮火祭祝詞」ではイザナミの言葉に
「夜七夜、昼七日、吾をな見たまひそ、吾が奈妋の命…。」とあり
「播磨国風土記」では天目一命に献酒しようとし
「七日七夜之間、稲成熟…。」という水稲の豊穣を願う言葉がある。有名な
「常陸国風土記」での杵嶋の唱曲は七日七夜歌われ賊を油断させて滅ぼしている。
また七夕には織姫が天川に臨み、松浦川での
「七瀬の淀」には神功皇后や淀姫が縁を結んでいる事から、「七」という数字は神秘的な呪術を含んでおり、どうも七瀬の意味には水辺の穢祓と女神が関与しているようだ。これらから思うに、岩手県に定着していた江刺七観音や二戸七観音はどうも七福神などの、やはり七という数字の目出度さ、ご利益に期待しての七観音であるように思える。そして遠野の七観音は原初的な聖数である七という呪力と穢祓に加えて、女神の息吹を感じるものである。
先に述べたように、古代において井戸水を使用するのは神迎えの神事でもあった。そしてその水によって観音像を洗う行為は、穢祓の呪術でもある。12世紀の
「禁秘御抄」においては七瀬の祓いには陰陽師の人形を使い穢祓をするという。恐らく遠野七観音は北斗七星の星々が点在するようにあるのも、北斗七星と水の結び付きを意味している筈だ。これらから考えられるのは、井戸水が早池峰山より流れ出でる水を使用する事から、早池峰の女神であり水神でもある瀬織津比咩の霊力を受けると共に、その穢を祓う意図があるのだろう。
更に遠野七観音に携わったのは天台宗の慈覚大師であるが、
学研「天台密教の本」によれば「帰命檀伝授之事」では
「我らは天の七星の精霊くだりて五体身分と成る也。報命尽れば虚空の七星に帰る。」とあり、これは
「我々は北斗七星の精から生まれ、北斗七星に帰る」という解説が成されている。井戸とは地面に穴が開いているのは黄泉の国と繋がっていると云われる。その為に、井戸には幽霊の話が多いのだが、この「帰命檀伝授之事」では魂の生まれ変わり、つまり輪廻転生を謳っている。
また「帰命檀伝授之事」はこう続ける
「わが祖師の知者大師が御誕生なさって七日ほどの間、七星のうちの一星である破軍星が消えてなくなった…。」ここにも聖なる七の数字が連なる。そしてその北斗七星は我々の故郷であると説いている。つまり遠野七観音とは、聖なる七つの星で輝く北斗七星を遠野郷に点在させ、蝦夷の民であった民衆の魂を浄化させる意図を含んでいるものだと考える。それはやはり、蝦夷平定の後の、俗化の一環であった可能性は否定できないだろうと思う。