多賀神社は、遠野の町の縁結びの神として名高かったらしいが、違和感を覚えていた。何故ならば、祀られる祭神はイザナギとイザナミは、イザナミがカクツチを生んだ時に死んでしまい、黄泉の国の住人となる。それから夫婦でありながら、現世と黄泉の国に別れてしまうからだ。確かにイザナミが生前の頃は、仲睦まじく多くの神々を生んでいたが、黄泉国と地上との境である黄泉比良坂の地上側出口を大岩で塞ぎ、イザナミと完全に離縁した。その時に岩を挟んで二人が会話するのだが、イザナミが
「お前の国の人間を1日1000人殺してやる!」と言うと
、「それならば私は、1日1500の産屋を建てよう。」とイザナギは言い返す。現世と黄泉の国に別れた二人は、互いに反目するのだが、それが縁結びの神として祀られるには少々不可解ではある。
古代の「タカ」は神の坐所としての「高」を意味していたと推測されており、後に「多賀」となったと、ある。
伊能嘉矩「遠野くさぐさ」においては、伊能はアイヌ語をあてて説明している。
アイヌ語で
「tuk」は
「上に拡がる」の意で、これに
「wa」を加えて
「タクワ」となると説いているが、これにも疑問符は付く。また別に「タガ」は「タカ」の語源でもあるので、遠野の「多賀の里」は「鷹の里」でもある説もあるが、確かに「鷹」は「高」と同義で「タカ」である為に、確かに神の坐所の意味にも繋がるが、いまいち納得はできない。
ところで栃木県那須町に境の明神という社があり、また別に福島県白河町に、やはり境の明神の社があるのだが、栃木県にはイザナギが祀られており、福島県にはイザナミが祀られている。また宮城県と岩手県の間にも、境の神としてイザナギとイザナミがそれぞれ祀られている。御存じ、宮城県の多賀城は蝦夷国を攻める為の前線基地であり、その先は蝦夷国である岩手県となる。
考えてみると、イザナミは死んで黄泉の国に住むようになり、夫婦でありながら、別々の世界に住んでいるわけだ。つまり栃木県の境の明神にはイザナギが祀られている事から、大和朝廷側に属する地であり、イザナミが祀られている福島は、蝦夷国であった事から考えれば、「多賀」とは夫婦でありながら「互(たがい)」に違う国に住んでいる意味を含むのかとも考えてしまう。
また滋賀県の多賀大社の先には、伊吹山がある。その伊吹山の先は、越の国であり、当時で言えば異国である蝦夷国となる。この事から考えても「多賀」とは「互」も意味するのかとも思えてしまう。「大言海」では「互」を「違の義」もしくは「手交(タカヒ)の義」という説明がなされているが、別に「違(たが)う」という漢字の意味でもあてはまるかもしれない。しかし、どちらにしろ遠野の多賀神社が「縁結び」にご利益があるとは考え辛いのだが…。