「菊池氏要略」の年表を見ていると寿永四年(1185年)に家紋を日足紋から揃鷹羽紋に改むとある。日足紋は元々日下部氏の家紋であり、太陽の光が後光のように差している図柄で、この後光の光を「足」と見立ててのもののようだ。つまり日下部氏は「日」を奉じる氏族であり、その後裔の菊池氏もまた「日」を奉じる氏族であるのだ。
その日下部氏が祀る日下部吉見神社には水神が祀られていたが、阿蘇大神である健磐龍命に嫁いだのが日下部吉見神社の水神であり、阿蘇神社に嫁いで阿蘇津姫となった。
この日下部吉見氏が奉祭する母神「蒲池比咩」は肥前国一宮である川上神社に祀られる「與止日女」と習合していた。筑前糸島の桜井神社(與止日女宮)」で川上の與止日女は瀬織津比咩と同神とされている。つまり日下部吉見神社という「忌避された神」を祀る下り宮に祀られた水神は瀬織津比咩であって、それが阿蘇神社に嫁いで阿蘇津姫となった。
遠野に多い熊本の菊池郡を
「菊池郡市神社誌」で読み調べてみると、殆どが阿蘇の神を祀っている。また菅原道真を祀る神社もかなりの数を示すのだが、それは本来の水神を祀る神社が時代の推移と共に菅原道真に変わっただけらしい。つまり菊池の故郷で菊池一族の祀る水神とは阿蘇津姫であった。
岩手県での菊池氏合計は11,652人で、全国トップとなる。しかし菊池郡を要する熊本県では僅かに348人である。これでわかるのは菊池氏が故郷を捨てて散らばったという事だが、それが岩手県に一番集中したという事なのだろう。それは何故か。
菊池氏の主流である日下部氏が奉祭する母神に蒲池比咩がいる。蒲池比咩(かまちひめ)は肥前国一宮である川上神社に祀られる與止日女(よどひめ)と習合していた。そして筑前糸島の桜井神社(與止日女宮)」で川上の與止日女は瀬織津比咩と同神とされている。
ところで、遠野の卯子酉神社へ行って意識した人がいるかどうかわからないが、道路から緩い傾斜であるが、下りながら境内へ行くのが卯子酉神社。以前は、もっと傾斜があったとも聞くが、現在は然程ではない。大抵の神社というものは、高台に鎮座するのが普通。そこまで石段やら、獣道みたいなものを登って行く神社が殆どだ。実は、
下り宮というものは
「忌避された神」を封じる宮という。実は全国で、この下り宮があるのは熊本の日下部吉見神社が有名となる。つまり日下部吉見神社という「忌避された神」を祀る下り宮に祀られた水神は瀬織津比咩であって、それが阿蘇神社に嫁いで阿蘇津姫となった。
岩手県の三女神伝説を調べていると、その殆どの三女神祭祀をしている氏族が菊池氏であり、やはり早池峰大神である瀬織津比咩を祀っている。しかし、熊本県の菊池郡には何故か瀬織津比咩の名前は見いだせないでいたが、唯一…公にはできないが、某家に伝わる文書に、日下部氏と菊池氏が信仰した神の名が瀬織津比咩であった事を確認できた。つまり岩手県においては早池峰大神として祀られ、熊本県に於いては阿蘇大神であり、阿蘇津姫という、その土地に馴染んだ名となって祀られているに過ぎない。その
本名は瀬織津比咩であったのだ。となれば何故に岩手県に多くの菊池氏が移り住んだのかは、早池峰に祀られる神の元に集まったとも考えられる。ただ菊池氏の起こりは南北朝時代となるのだが、早池峰に祀られた瀬織津比咩は、始閣藤蔵により大同元年(806年)とされる。それはつまり、南北朝以前から熊本の菊池氏…いや、日下部氏との繋がりが早池峰にあったという事。そして、その結び付きを解明するのは、やはり安倍氏となるのであろう。