陸前高田横田村に鎮座する四十八神社では、滝を御神体とし瀬織津比咩を祀っていたが、現在は宇迦御魂命を祀る社に変わっている。ここで思い起こされるのは、神道での考え方だ。
「水ハ汚穢濁ヲ洗ヒ清メ流シ去テ清明ヲ致ス徳天日ノ如シ」
つまり、日(火)は水でもあるという事だ。この「狐と瀬織津比咩」の当初に、龍燈の話をしたが、龍は海神でもあり、水神でもある。また風雨や雷・稲妻を発生させる雷神であり、天神でもあって、農神にもなりえる。更に突き詰めれば祖霊神でもある。祖霊神は聖なる「火」で象徴される為、山頂の古木などに上がった龍燈は霊場に集まった祖霊神とも捉えられる。
白狐に乗るダキニ天によって広まったであろう稲荷神はの究極の存在は、やはり伝説の玉藻前であろう。この玉藻前は白狐が変化した姿となる。
大森恵子「稲荷信仰と宗教民族」を読むと、福島県の
常在院蔵「玉藻前草子」には二つの尾の先端部分が真っ赤に照り輝く白狐が描かれていると紹介している。そして
「玉藻前は身体全体から光線を発すると語られたことは、狐神(仏教的稲荷神=ダキニ天)と太陽神を同一する信仰があったことを物語っている。」と述べている。
後世ダキニ天を普及させた人物の一人に、愛染寺の初代である天阿上人がいる。天阿上人は伊勢と江戸と京都と伊勢を度々往来し、稲荷信仰を広めた人物だ。その天阿上人曰く
「ダキニ天は北斗七星をあらわす。」と述べている。これは三光(太陽・月・星)狐と結びついてのものであった。その為、京都の妙見宮や大阪の能勢妙見堂には狐が祀られるようになったというが、この概念がいつしか東北に伝わってきたのかもしれない。それだけ稲荷神は、様々な形に変化する。
東北での様々な信仰の普及には山伏が一役かっていた。その山伏の元締めとも云われるのは、東北であるならば羽黒修験の者達となる。羽黒修験の力の増大は、後醍醐天皇が即位してからであったよう。ダキニ法と結びつく真言宗を後醍醐天皇が信仰していたのも大きかったのかもしれない。
湯殿山が出羽三山となる以前は、鳥海山が出羽三山に属していた。その鳥海山信仰に携わる小滝修験に関連する
【遠藤光胤家文書】によれば、
鳥之海神社に祀られる和加宇加売命は、倉稲魂命であり、荒魂ノ御神なりとある。そして
荒魂ノ御神とは、天照太神の荒魂であると。
瀬織津比咩について知られる内容には以前からわかっていた事に、天照大神の荒魂が瀬織津比咩であるという事実が伊勢に伝えられている。恐らく、それを更に稲荷信仰に結びつけて普及したのは、伊勢が神宮運営に苦しんでの事では無かったのかと察するが、しかしそれは古くからの信仰があっての事であったと理解する。それは、鳥海山の信仰に結びついてくるのではなかったのか。
そして「古事記」では宇迦之御魂神と表すが「日本書紀」では倉稲魂尊と表す。宇迦之御魂も倉稲魂も「うかのみたま」である為、何故に陸前高田の横田村に鎮座する瀬織津比咩を祀っていた四十八神社が稲荷神である宇迦之御魂神と結びついていたのか漠然と見えてきた。
ところで
「鳥海山信仰史」の中の
「吹浦村両所山神位願に付御用牒」というものに、面白い記述があった。
「…右の序文に大物忌神社の命の義、大物忌神は大和国廣瀬大明神と同体…。」
これを廣瀬神が大忌神と呼ばれるのと、大物忌神が混同された為と捉えられてもいるが、大物忌神が何故に恐れられたのかは、その根底の概念にある信仰と結びついてくるようだ。
また【遠藤光胤家文書】において、小滝修験は鳥海山に祀られている大物忌神社に違和感を感じ、そこで別に霊峰神社を建立し、祀ったという。その霊峰神社は仏者として観世音菩薩を祀り、神者として祀ったのが
八十過津日神であった。以下に、その文書の文を記す。
「此神ハ天照太神荒魂ノ御神ナリ、神慮に恐アレハスコシク侍ルナリ、荒魂トハ伊弉諾尊至明ノ極リヲ儘シテ末生ノ本源至至ラセ給フル心化ノ神号ナリ、有リ猶口伝、不学神朝ノ遵君子難明呼心ノ霊直ナル者ヲ以テ其狂曲ル者ヲ矯直シメ、天日一体禾直日ニ致ント力ヲ用ヒ、功ヲ励シメ心化ノ神号也、「八十狂津日神」者心化ノ神号呼八十八数ノ多キ義ナリ、「狂津日」ハ哀慕ニ流レ、不浄に穢ルゝ罪ヲ覚知シ給ヘル御心ヲ指メ伝フ心と伝 ハスメ、日ト伝ルハ神道心法ノ相伝也…以下略」
八十過津日神は、伊弉諾尊が中津瀬で禊をした時に真っ先に生まれた神となっている。その八十過津日神を文書内では「八十狂津日神」とし「狂」という字をあてている事に関して、次は展開すると共に、新たな神名を紹介しようと思う。