異説「附馬牛考(其の一)」の冒頭で、早池峰周辺の麓では、牛や馬の飼育が盛んであったと書いた。そして附馬牛は付喪牛であり、次には牛頭天王との関連を書くと記した。牛頭天王には蘇民将来の伝承が深く印象付けられるが、そもそも
「蘇」とは、古代においては牛乳から作ったチーズの意があった。
廣野卓「古代日本のチーズ 」によれば、
「続日本紀」慶雲四年(707年)に「使ヲ遣シ蘇ヲ造ラシム」とあるが、天皇は各地の御料地に牛を飼わせ、その搾り取った牛乳から「蘇(チーズ)」を造らせて
「貢蘇」とさせていたようである。
「蘇民将来」が朝鮮から渡ってきた名称であろうが、「蘇」がチーズであるならば朝鮮半島から渡ってきた民族とは遊牧民族の可能性は高い。それを裏付けるものに、牛頭天王と星の結び付きもあるからだ。
早池峰神社に古くから伝わる大出神楽の式八番に「牛頭天王」がある。法印が京都から伝えたものだとされるが、出羽三山に伝わった神楽と同時代であったとされる。以前紹介した奥州の新山神社の宮司は、平安時代に京都から羽黒修験に伝わる瀬織津比咩を信仰し、出羽三山で修業した後に、現在の奥州新山神社に藤原氏の庇護の元、社を建立したという。どうも牛頭天王にしろ、瀬織津比咩にしろ、京都の修験の流れがあったよう。そしてその牛頭天王と瀬織津比咩に共通するものとして、星の信仰があった。
日本の神道の流れは、天照大神を中心とする太陽と、それに対局の位置にある月の信仰が農事と結びついて広がっている。ところが朝廷に逆らった香香背男が意味するのは、その天照大神の神道の流れに相対する勢力であるというもの。牛頭天王である素戔嗚もまた天照大神に逆らったのは「古事記」に記されている。江戸時代においては、星の信仰は反逆や謀反の象徴であったという。それはお天道様の下を避け、夜の界隈を泥棒などの悪事を働くもの。つまり太陽も月も照らさない、星空の下には悪が蔓延るものと考えられていたようだ。
画像は、奥州市にある黒石寺の妙見堂だ。黒石寺に伝わる絵図には、本堂である薬師堂と、もう一つ同じ大きさの観音堂(恐らく十一面観音)の真ん中の石段を登った所に妙見堂がある事から本来、黒石寺で祀っていたのは妙見であろうという事らしい。寺伝によれば、行基が東光山薬師寺を建立したのが天平二年(730年)で、その後妙見山黒石寺と改称したのが嘉祥二年(849年)だというが、どうも先に信仰していたのが妙見であり、後に薬師如来を祀ったと考えれば、桓武天皇が延暦十五年(796年)3月19日に、大衆が妙見を祀る事を禁じる勅が下されたものに符合する。
妙見信仰は、北極星(もしくは北斗七星)を最高神とする道教を基とする星神信仰となる。「魏志倭人伝」によれば、卑弥呼は鬼道で民衆を惑わすとされているのは卑弥呼の駆使する奇門遁甲(卜占など)が当時の中国では邪教とされていたからだろう。だからこそ、恐らく日巫女であろう名称が卑弥呼という蔑称で書き記されているのは、道教が邪教として虐げられていたせいだろう。
ところで牛頭天王は「天形星」であり、また二十八宿の一つ「牛宿」を司っており、そして北斗七星を形成する破軍星でもあるという。「文殊宿曜教」によれば「七魂とは、天の七星なり。下々来々して、人身に通じて七魄と成る」とあるのは、七星は北斗七星であり、これは「七つ森」に降りた星の信仰=七薬師の信仰に通じる。宿曜のような人間の運命と星座を結びつける占星術が生まれたのは、夜空を眺める事の多い、中央アジアの遊牧民からであるとされている。日本における星神の信仰は、大陸から牧畜や養蚕などの技術を運んだ渡来人に担われたといいうのが通説のようだ。