【弘渕神社】 花巻市石鳥谷町江曽9-113
【由緒】
建長年中(1249~1255)弘淵山長楽寺開基恵休上人(藤原源太夫弘長)
大和国高市郡より奥州へ下向のみぎり、釈迦如来一尊六字名号、地蔵尊の什物
を奉携し、江曽に来り一宇を建立し、篤く之を崇敬せり。長楽寺二十一代の住
持俊教は、碩学にして徳の厚い名僧で、常に済生利民の志をいだく。
時に元文4年(1739)、大旱魃にして、農作物悉く枯死せんとす。利教農
民の苦難を見るに忍びず同年8月5日雨乞いをせしところ不思議にも大雨が降
り出し、四隣を潤し、作物蘇生して成熟し、支配の人民は救われた。依て利教
は地蔵尊を大明神として造立す。里人そのご利益の顕著なるに深く感銘帰依す
るところなり、地をトして一祠を建てて之を祀り、利教の許を得て之をに長楽
寺の山号たる弘淵山の二字を冠して、弘淵大明神と敬称崇拝せり。
後に瀬織津姫命を合祀したが、明治維新になって、神仏混合を禁じられ、瀬織
津姫命を祭神とした。
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この由緒に感じる事は、当初は瀬織津比咩が祀られていなかったが、後に合祀された瀬織津比咩を大事に思い、瀬織津比咩主体の神社になさったという事だろう。この神社の裏手には北上川が流れている。つまり、水の流れと雨乞いを意識して祀られた瀬織津比咩は、かなり古くから人々の意識の中に残っていたのだと考える。そうでなければ、後から合祀された瀬織津比咩を残すという事は考えられない。本来は、瀬織津比咩という神が地域の人々に既に根付いていて、後にそれが本願叶ったと考えられないだろうか?
とにかく花巻の瀬織津比咩は北上川流域にあり、東和の瀬織津比咩は猿ヶ石川流域。また陸前高田は気仙川流域であり、やはり川や滝に瀬織津比咩が鎮座しているのがわかる。